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2016年12月23日金曜日

’17年1月5日(木)~13日(金)エルヴィス生誕祭ウィーク @ 神戸ポルタマリ 


エルヴィス・プレスリー~黒人のように歌うことができる白人歌手


ELVIS Aron PRESLEY  1935 年 1 月 8 日 - 1977 年 8 月 16 日

“ ローリングストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のシンガー ” において第 3 位 
“ ローリングストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のアーティスト ”  において第 3 位
“ Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のシンガー ” において第 1 位



エルヴィス・プレスリーはロックンロールの草創期にロック ヴォーカリストのイメージを決定づけ、ギネス ワールドレコーズでは “ 史上最も成功したソロ アーティスト ” として認定された唯一絶対のキングであり、ザ ビートルズやドアーズのジム・モリソンも彼のファンだった。

エルヴィスの初期スタイルは黒人音楽のリズム & ブルースと白人音楽のカントリー & ウェスタンのミクスチャーで、これは ’50 年代、深刻な人種問題を抱えていた米国ではありえない画期的なことである。エルヴィスは、黒人のように歌うことができる白人歌手として発見されたのだ。

’70 年代、巡業を始めた当初、ツアー先の白人プロモーターから “ 黒人娘 ( コーラスのザ スウィート インスピレーションズ のこと ) は連れてこないでくれ ” という指示が度々あったが、エルヴィスは “ 彼女達と一緒でなけりゃ、僕も行かない ” と突っぱねた。白人プロモーターが謝罪し、多額のお金を積んでも、絶対に許さなかったという。

エピソードと言えばエルヴィスの最も有名なそれは、米国のバラエティー番組 『 エド・サリヴァン ショー 』 出演の際、保守的視聴者の抗議を畏れた番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードだ ( 笑 ) 歌いながら扇情的にヒップを揺らすアクションはエルヴィスを語る上で不可欠なものである。

若年層への悪影響を懸念した保守層により、エルヴィスの音楽は過剰に排斥されたが、それでもブームは加速していった。ロックンロールは一気にメジャーになり、今迄、音楽に興味のなかった特に若い女性が、積極的にリスナーとなった。また、音楽がファッションや髪型等の若者文化を巻き込んで台頭するのも、この頃からだ。

いわし亭がリアルタイムでエルヴィスの死に接したのは高校 1 年生の時、真夏の暑い最中だった。資料に当って驚かされたのは、エルヴィスが思いのほか、早逝だったことだ。享年 42 歳。まだまだ、十分活躍できたろうにと思うと、今更ながら複雑な思いにとらわれる。


◎ 期間中、エルヴィスの映像を店内の大型モニターでノンストップで流します

◎ 期間中、エルヴィスの音楽をはぐくんだメンフィス料理をメインにしたほろ酔いエルヴィスセットを提供いたします
※ 内容は日によって変わります
ポークバーベキュー ポークリブ/コールスローサラダ/フライドチキン/ボローニャ・サンドウィッチ etc.

◎ 1 月 8 日 ( 日 ) 生誕ライヴ エルヴィス ナイト
※ 開場 18:00 開演 19:00 / 70席
※ ¥ 2,500 1 ドリンク + スナックプレート
※ 2010年、東京で開催されたエルヴィス コンテストで優勝、メンフィスの世界大会に出場して高評価を得た龍美勇一氏を迎え、エルヴィスのバースデイに彼の音楽をライヴ演奏で楽しんでいただきます


☞ ポルタマリ
住所:神戸市中央区三宮町 1 - 9 - 1 三宮センタープラザ東館 B1 F 
電話:078-599-8808

※ いわし亭は 2017  年よりポルタマリの音楽監督として、様々な催しを企画してまいります。よろしくお願いします。







2015年9月4日金曜日

ハートが大好きだったシーナは、ヴァレンタインに旅立った ~ 追悼 シーナ

2015 年 2 月 14 日
1978 年の結成当初より中断や解散状態に一度も陥らず、35 年間走り続けたシーナ&ロケッツで、日本の女性ロック ヴォーカリストのスタイルを確立したシーナ ( 本名 鮎川悦子 ) が、子宮頸がんのため、入院先の都内の病院で亡くなった。享年 61 歳。

“ 35 年一緒に ( シナロケを ) やれて、幸せでした。ファンの方にも幸せでした、と伝えてください ”
“ 歌うことが好きで、病気治ったら何したい? って聞かれたら < 歌いたい > って。( 最後にそれが ) かなわんかったから、歌聞きながら…。素晴らしい歌手でした。一緒に 35 年過ごせて、幸せでした。ファンの皆さんから愛されて、とても幸せやったと思います。ハートが大好きだったから、バレンタインが命日に なって… ”

夫、ギタリストの鮎川誠 談 デイリースポーツ 2015年2月14日


めんたいロック ( 実際には、福岡にとどまらず日本 ) を代表するロック黎明期の名バンドであったサンハウス~ ミシシッピー デルタ ブルーズの大御所の名を冠したその命名自体、名は体を表すを地で行くものだ。ヴォーカルの柴山俊之はそのスタイルと作詞能力で抜きん出た存在感を発揮している ~ でシャープで切れのいいギターを聞かせていた鮎川誠は、1971年、高校3年生の夏休みに恒例の家出を終えて京都から帰ってきたシーナと博多のダンスホール “ ヤング・キラー ” で運命の出会いをする。二人は生き方や音楽の好みなど多くの点でヴァイヴス ( ! ) を共有し、すぐさま同棲、事実婚の状態になった。
シーナ & ロケッツがユニークだったのは、ミュージシャン同士が結婚したのではなく、もともとの夫婦がバンドを結成したという点だ。実は、それまでシーナはヴォーカルを担当したことがなく、バンド結成時は完全な素人だった。そもそも、1978年当時、ヴォーカリストとして指標になる女性ロッカーは、すでにパンクの洗礼を浴びた海外 ( 例えば、ブロンディのデボラ・ハリーやパティ・スミス、スージー・スー、ニナ・ハーゲン、スリッツのアリ・アップ、レインコーツのアナ・ダ・シルヴァとジナ・ バーチ、X-レイ スペックスのポリー・スタイリン といったところか ) でならともかく、日本では OZ を率いていた女帝カルメン・マキくらいしかいなかった。女性ヴォーカルという大きなカテゴリーから俯瞰すると、かろうじてジャズ ヴォーカリストとして独自の美学を貫いていた浅川マキ、ロックやパンクに通底する特異な世界観を持っていたシンガーソングライター達~森田童子、山崎ハコ、中山ラビ、佐井好子、スタンス自体がアウトサイダーそのものであった美輪明宏といった名前が挙げられるだろうか…

ヒット曲ランキングから見てみると、ピンクレディーが 「 UFO 」 の1位を筆頭に実に 4 曲をトップテンに送り込んでおり、以下、堀内孝雄 「 君のひとみは 10000 ボルト 」 キャンディーズ 「 微笑がえし 」 平尾昌晃・畑中葉子 「 カナダからの手紙 」 サーカス 「 Mr. サマータイム 」 矢沢永吉 「 時間よ止まれ 」 中島みゆき 「 わかれうた 」 が続く。さらに印象的なところを挙げると世良公則&ツイスト 「 銃爪 」 山口百恵 「 プレイバック Part 2 」 アリス 「 冬の稲妻 」 沢田研二 「 サムライ 」 等々がチャートに並ぶ。
一方、海外では、かのセックス ピストルズが1月に空中分解、すでにパンク ムーヴメントはその役割を終え、ニュー ウェーヴ・オルタナティヴやレゲエへとバトンを渡しつつあった時期である。

◎ SHEENA & THE ROKKETS
   鮎川誠 & シーナ ロケット→シーナ & ザ ロケッツ→シーナ & ロケッツ

1978 年:鮎川誠 & シーナ ロケットの名義でシングル 「 涙のハイウェイ 」 をリリース、デビューを飾る。翌1979年、アルバム 『 真空パック 』 を発表。シングル 「 ユー メイ ドリーム 」 ( 作詞 : 柴山俊之 作曲 : 鮎川誠、細野晴臣 ) が JAL の “ マイ ハート キャンペーン ” の CFに起用され、一躍、脚光を浴びる。国内外を含めて、これまでに通算 35 枚のアルバム 16枚のシングルを発表

1988 年:ニューヨークの CBGB でライヴ デビュー。ジョン・レノン&オノ ヨーコの専属写真家 BOB GRUEN の写真集で “ 日本の最高峰 パンクバンド ” として紹介される。国内・海外の様々なアーティスト 特にウィルコ・ジョンソンとの交流が深い。

代表曲:「 レモンティー 」 「 ユー メイ ドリーム 」 「 ピンナップ ベイビー ブルース 」 「 ハッピーハウス 」 「 レイジー クレイジー ブルース 」 「 ロックの好きなベイビー抱いて 」 「 ビールスカプセル 」 「 I’M FLASH ( ほら吹きイナズマ ) 」 

バンド名:“ シーナ ” という名は、鮎川誠の祖母の名前 “ 鮎川シナ ”、2人が好きなバンド ラモーンズの 「 シーナはパンクロッカー 」 という曲のタイトルに由来する。シーナの本名 “ 悦子 ” から “ ロック + エツコ = ロケッツ ” となり、さらにロケッツだけでは軽いということと、昔風に “ ●● & ロケッツ ” にしたい という鮎川のアイディアによる。綴りを “ ROCKETS ” ではなく “ ROKKETS ” とするのも鮎川流のセンスとのこと。


不明なことに、鮎川誠のライヴはサンハウスの再結成などで、何度か見ていたのだが、いわし亭は肝心のシーナ & ロケッツを見たことがなかった。
今回、シーナの訃報を受けて、東京と福岡で追悼ライヴが開催されたが、2015 年 6 月 9 日 正にロックの日! に名古屋 CLUB ZION でヘイトフル エアヘッド クロージング発足記念 ライヴ ショウと銘打ち、関西圏で、シーナの急逝以降初のライヴが企画された。前座は何とこのブログでもおなじみのキノコホテル。当日は入場者全員に主宰者 HATEFULL 謹製 シーナ追悼メモリアル T シャツがプレゼントされた。

16:30

会社を 4 時半に出て、新幹線に乗ると最短で 6 時 41 分に地下鉄 上前津駅に到着する。そのまま 4 番出口を上がると地下に CLUB ZION ( クラブ ザイオン ) のある GION ビルのちょうど前に出る。
CLUB ZION は 150 人も入ればいっぱいになってしまうそれほど大きなライヴハウスではないのだが、GION ビル自体にレコードショップ、アパレルショップ、タトゥースタジオ、カフェ、ミュージックバー、サウンドプロデュース、等が入っていていて、ビル全体でアーティスト サポートを行っているユニークな場所である。

19:00

CLUB ZION に入るとすぐ左手にバーカウンターがあり、そこから続く壁にシーナの写真 ( 右→ ) を引き伸ばした大きなタペストリー ( ? ) がつるされていて、まるで彼女がステージを見守っているかのような風情が醸し出されている。
この日は特別 DJ も待機していて、面白い曲をセレクトするので、“ 次は何がかかるんだろう? ” と待ち時間も苦にならずに過ごせた。もちろん、
ラモーンズの 「 シーナはパンクロッカー 」 も流れていた。

19:30
キノコホテルの面々はいつも通り、ケメ ファービー JKと登場し、インストゥルメンタルの演奏でマリアンヌ支配人の登場を待つ。ステージが狭い分、メンバー全員を一目で視野におさめることが出来るというのは、それはそれでとても効率が良くて助かる。キーボードのある分、キノコホテルのステージ上は煩雑で混乱しており、ステージの狭さも手伝って足の踏み場もない感じだが、支配人はひらりひらりと軽やかに舞い、小道具の鞭を振り回して歌い、時には大股びらきでエレキ ギターをバリバリ弾いて、ノイズを出す。いつも通り、キーボードの上にも乗っかってシナを作る。
今回は OA ( オープニングアクト ) なので、小一時間程度の内容。イギリス公演から帰国して 2 週間くらいだが、最近の実演会をコンパクトにまとめたものになっている。ただ、短時間でもキノコホテルとしてのプロモーションは必要で、メンバー紹介を兼ねた終盤恒例の楽曲も当然、演奏される。
本来、シーナ & ロケッツとキノコホテルでは客層が相容れないことはなはだしいが、
支配人やケメのレジェンドに対するリスペクトはかなりなもので、今回は OA のためだけに名古屋まで来たのではないか。というのも、日程的にこの近辺での実演会が確認できないのだ。特にケメはかなりこの OA を楽しみにしていたことが伺われる。翌日 “ 愛用Tシャツにサインいただきました ” とツイートしている。 

keme ‏@reverbfuzz  6月10日
愛用Tシャツにサインいただきました。
シナロケ最高!涙でました
いつもよりステージに近い関係で、ケメが前に出てギターを弾いてくれると本当に近い。それはそれでかなり嬉しい。いつもステージ最後方にいるファービーも近い。彼女のドラムも恐ろしく上達したと思う。バックコーラスに加えて、最近は曲を間断なく演奏する関係で、司令塔としてのリズムセクションは、ことのほか重要になって来ているのだが、その意味でも、ファービーと JK の連携は素晴らしい。ファービーの場合、キノコホテル自体が歌謡曲ベースでストレートなドラムに徹している分、変拍子などはそもそも必要ないが、JKとリズム セクションを構成している関係上、スピードやテンポ、手数などで、実はかなりなものを要求されている。

何にしても、近いというのはライヴハウスの醍醐味でもあり、その意味では、音や演奏や表情などもダイレクトに伝わる感じが良い。特にケメ ファンのいわし亭は、ステージに対して右側に立つことが多く、いつもほとんど視界に入ってこない JK をしっかり見れたのが良かった。JK の笑顔はまさに天然の笑顔で、演奏が楽しくて仕方がない感じがまるで童女のようである。しかし、音はガリガリと物凄く、それほど激しく演奏している風には見えないのだが、音数が半端なくて、その運指のスピードやいかに! と思われるのである。ギターの様にコードのない関係で、ケメがコードを引きながらリズムギターに徹してバッキングをしている時など、明らかにベースのメロディの方が立っている。

楽曲によって、両サイドの JK とケメがシンクロしながら、体を左右に振ったり、ぴょんと飛びながら体の向きを変える草創期から継承されてきたステージアクションが、今も割愛されることなく披露されているのも嬉しい。この動きとともにキノコホテルのライヴが終わっていく。このエンディングを見る度に、また次も見に来ようという気持ちが起こるのだ。

支配人自身、“ 何のことやらワケが分からんと思われている方もたくさんいらっしゃることでしょう ” と MC で話していた通り、キノコホテル目当てで集まったリスナーは少なかったと思うが、それでも OA として十分に会場を温め、いい仕事をしたと思う。

21:00
キノコホテルが下がって約 20 分後、もう時間的には 21 時が近いが、ついについに
シーナ & ロケッツ登場。

もちろん、シーナが2月に亡くなっているので、ドラム ベース ギターのトリオ編成である。あえて OA にキノコホテルを起用したのは、女性ヴォーカルとして支配人かケメを使う気なのか? とも思ったが、考えたらシーナの代わりは誰も出来ないのであって、そんなことをしたら逆にファンが怒るだろうし、キノコの彼女たちも畏れ多くて辞退するだろう。
“ シーナは三人のここにおる。でも見とるだけやから、みんな助けてな ” と自分の胸を指しながら朴訥に語る鮎川誠という人は、何て素晴らしい人なのだろうと思う。その感覚は正にファンと同じで、決してアーティストぶったり、上から目線でモノを言うことがない。
キノコホテルに引き続き、かなりの至近距離で鮎川誠、その名手のスケールワークをじっくり堪能できたのは、正に至福の時間
だった。この人、思っていたよりもかなり大きな人で、従って手のひらも凄く大きくて、これでガキッ と押さえられたコードはやっぱ説得力満点なのだ。日本人と外人のギタリストの最大の違いは手のひらの大きさだ と熱心に語ってくれた友人のギタリストがいたが、なるほどその通りで、鮎川誠の左手は安定感も群を抜いているのだ。

それにしてもここのところ、名手と呼ばれる人々の演奏を立て続けに目の当たりにしているが、きれいな状態のギターを見たことがない。どのギターも使い込まれてかなりくたびれており、何度も同じところをストロークされたであろうその場所は、塗装も完全に剥げて、ボディの素材そのものがむき出しになっている。角のところどころは欠けたり、剥げたり、埃がたまっていたりで、決して大事に扱われているとは思えない風情なのだが、そのくせ、セカンドギターは結局、トラブル対応用でしかなく、事実上、ほとんど利用されないもので、このくたびれたギターがやはりメインで弾き倒されるのである ( 笑 )  今、目の前での草臥れているけれども実に味のあるストラトキャスターを構える姿こそ鮎川誠その人である。オリジナルのヴィンテージ レスポールも一曲だけ登場させたが、やはり借りて来た感が否めなかった。名匠の作った風格を漂わせる実に美しいギターではあったが、正にワンポイント起用で実際、骨董品の様な扱いを受けている。やはり、メインはあのくたびれたギターなのだ(笑) 

堅実な演奏を聴かせるリズムセクションは見事なまでに黒子に徹していて、二人の名手は素晴らしい演奏を展開しているにもかかわらず、決して前に出ようとはしない。彼らが完全にバックに徹している関係で、かつてシーナが立っていた場所、鮎川誠とベースの奈良敏博の間、ドラムの川嶋一秀の前の大きく開いたスペースが存在感を発揮している。確かにここにシーナはいて、タンバリンを叩いたり、腰を大きく動かしたりして踊っている。
いうまでもなく、シーナ & ロケッツは、日本の紅一点バンドの草分け的存在なので 「 ユー メイ ドリーム 」 の様な代表曲は、鮎川誠が歌うにはキーが全然違うわけだが、フロアのファンが一緒に大合唱してそれを補うと、まるでそこでシーナが熱唱しているかのようにライヴは加速していく。
シーナが旅立ってまだ4カ月しか経っていない。だから、今年いっぱいくらいは、まだこんな手触りのライヴが続くのだろう と思うけれども、それに関してはファンも鮎川誠自身もあれこれ考えるより、その時々の自然な感情に任せて、楽しむのが一番なのではないか という気がする。

若い世代の大人の世の中に対する不平不満の表明として機能したロックにとって、ベテランやオールドネームとどのように折り合いをつけるのか という問題はなかなかに厄介だ。とはいえ、、本稿の鮎川誠をはじめ、ここのところ還暦を迎える~例えば PANTA、遠藤ミチロウ、遠藤賢司、友川カズキ、早川義夫、灰野敬二、JOJO広重、仲井戸麗市、泉谷しげるといったビッグネームがずらり並んだ感じはやはりモノ凄いし、ある種の感慨がある。だからこそ、女性ロッカーのシンボルとして、シーナには君臨し続けて欲しかった。

主催者からプレゼントされた記念Tシャツ
そして、実は還暦とはいえ、昨今、60 歳というのは、昔思っていたほど老人のイメージが付き纏わないものになっている。実は 60 歳とは、潤沢な経験値とまだまだ十分に残っている体力が絶妙のブレンドを施され、今迄、若いロッカーが勢いに任せた単なるエネルギーの無駄遣いで突貫工事のように演奏してきたロックを最小限の力と高いスキルによって再現する というマジックをたくさん見せてもらえるのではないか という淡い期待を抱かせる。実際、例えば、ジェフ・ベックなど、どう聴いても今の演奏の方がスピード アップしている観があるのだ。
あるいは年齢を重ねて、人間が熟成していくことで初めて味わい深い演奏にたどりつくブルースの様な音楽もある。日本のロックもやっとそうした老い ≒ 刹那 つまりはブルーズを体現するミュージシャンを擁するジャンルにたどり着いたのであり、これからの彼らの活躍が楽しみになる。

主宰者から配られたTシャツの出来もなかなかだったが、カラーが白でサイズも M しかなかったので、ライヴ中メンバーが着ていた黒ベースのシーナのTシャツも購入することにした。カウンターでビールを注文して、やっと汗だくの状況から解放されると、大急ぎでライヴハウスの外に出た。驚いたことに物販に鮎川誠その人がいる。思わず握手をしてもらい、最後のアルバムにサインをもらった。それにしても何とも気さくな人で、ファンと一緒にツーショットを撮っていたりもして、その場にいたファン全員が奇妙な興奮状態を共にしたのだった。


※ シーナ&ロケッツの公式サイトには、『 SHEENA FOREVER 』 のリンクがはられ、夫 鮎川誠の言葉はもちろん、葬儀の様子や悼辞などが掲載されている。




『 YOU MAY DREAM ユー メイ ドリーム ― ロックで輝きつづけるシーナの流儀』 
ミュージシャンの赤裸々な告白録としては、かなり興味深い。日本のロックの黎明期に運命的な出会いをした二人のドラマが、著者シーナだけでなく、鮎川誠のワンポイント コメントとしても綴られていて、その対比だけでも面白く読める。
当時、次々と侵攻して来た欧米のポピュラー ミュージックに対し、それを真正面から浴びたリスナーやミュージシャンがどのような態度をとったのか? 黎明期の日本のロックがどのように始まり、またどのように進化していったのか。
当事者だからこそ語れるレアな証言集としても非常に貴重な一冊である。






祝 35 周年! 6年 3 ヶ月ぶりとなる待望のオリジナルアルバム
『ROKKET RIDE 』 ( CD + DVD 限定版 )

 1. ROKKET RIDE
 2. Ride the Lightning
 3. 太陽のバカンス
 4. Baby Love
 5. ROCK FOX
 6. 電撃BOP
 7. Madness City
 8. I’m So Glad
 9. 夢にしか出てこない街
10. 素敵な仲間
11. 風を味方に
12. ロックンロールの夜




< おまけ 名古屋メシ!>

ライヴの後、22時過ぎ、いつもの元祖名古屋名物 台湾ラーメンの中国台湾料理店 “ 味仙 ” に台湾ラーメンを食べに行く。あまりの辛さにまさに口呼吸状態で、それでも一心不乱に食べている様子は、第三者から見れば正にバカ以外の何ものでもなく、とんでもない感じだろう。前回は、昼間の14時ごろに食べたのだが、その時と比べても辛さが増していて、味仙の台湾ラーメンは、深夜に向かう程、辛くなっていく様に感じた。







2014年10月3日金曜日

ラヴ ソングが文学にかわる瞬間 ~ JOY DIVISION


0.8秒と衝撃。で
唄とモデル担当の J.M.
地方のロック フェスティバルで “ 0.8秒と衝撃。 ” の元気いっぱいのライヴに参加し、その後、メンバーと話ができた。ヴォーカルの塔山忠臣が JOY DIVISION のファーストアルバム 『 Unknown Pleasures 』 のジャケット デザインのTシャツを着ており、好きなのかな? と興味がわいたのだ。ライヴの後、彼はすぐに帰京してしまったらしく、物販には 唄とモデル担当の J.M.しかいなかったのだが、それでもいろいろお話ができた。
“ ピーター・フックのバンド ( おそらく REVENGE ) と対バンした ” と、あっけらかんと言ってのける J.M.に平成を感じたが、今の J-Pop の立ち位置みたいなものも伺えて、面白かった。対バンの際、ピーター・フックから直々にバンド T シャツをもらったのだが、別のライヴでその T シャツを着ていた塔山は、ライヴの出来が良すぎて興奮のあまり、その T シャツをフロアに投げてしまったらしい。
あ~ッつ!! って感じでした ( 笑 ) と。  

いわし亭が学生だった頃、結局、国内盤が出る気配がまるでなく、梅田の外れにあった輸入盤屋で高価なイギリス盤を買い求めた 『 CLOSER 』。ジャケットはエンボス加工のふわふわした紙で、意外に豪華な仕上がりだった。歌詞カードは付いておらず ( 歌詞は楽曲を構成する 1/4 でしかなく、ただの音であるというイアン・カーティスの意向だったらしい )、まさに音として聞いていた沈みきったヴォーカルを思い出した。


1976 年 6 月 グレーター マンチェスター サルフォードで結成

イアン・カーティス ( Ian Curtis ) : ヴォーカル、リリック
バーナード・サムナー ( Bernard Albrecht ) : ギター キーボード/アルブレヒトはナチスに因んだ JOY DIVISION でのメンバー名
ピーター・フック ( Peter Hook ) : ベース
スティーヴン・モリス ( Stephen Morris ) : ドラム/ステファンと記載されていることも多い。ここではスティーヴンに統一する

スティフ キトゥンズあるいはワルシャワと名乗っていたデビュー当時の彼らは、いわゆるピストルズ ショックを受けて雨後の筍のように現れたただの演奏の下手なパンク バンドでしかなかった。しかし、THROBBING  GRISTLE のジェネシス・P・オリッジはバンドの黎明期から彼らに注目していた。
また、インダストリアル ミュージックの雄 ジム・フィータスはオーストラリアから渡英直後、彼らのデビューライヴに偶然参加し、歌えば歌うほど異様なまでに落ち込んでゆくイアン・カーティスのヴォーカルを聴いて、一生忘れられない程の印象を持ったという。


1978 年 1月 7インチ デビュー シングル 『 An Ideal For Living 』 を自費プレス  

ファクトリー レコードと契約を結ぶ。
ファクトリー レコードは、洗練されたアート デザインが統一的なレーベル イメージを醸し出して、独自のステータスを確立していた当時、新進のインディペンデント レーベルである。デザインはピーター・サヴィルによるもので、彼はファクトリー レコードの専属デザイナーからそのキャリアをスタートさせたが、手掛けたデザインの全てが印象的で、美的センスの優れたものであった。

JOY DIVISION はレーベル プロデューサー マーティン・ハネットが使いこなしたレコーディング システム A.M.S.( Advanced Music Systems ) によってバンド独自の耽美的な音世界を完成させ、ファクトリー レコードの中心的存在となっていく。
同時期のライヴ盤を聴く限り、この世界観はやはりスタジオ盤に特有のものであることが分かるが、それほどにマーティン・ハネットが JOY DIVISION にもたらした音響プロデュースの効果は絶大であった。凍てつくようなシンセサイザーの音色、リズムセクションにエコーを効かせたダブ処理、イアン・カーティスの沈み込むような陰鬱な声質は、他の凡百のバンドから JOY DIVISION を完全に切り離したのだ。
スタイルとして完成された JOY DIVISION の個性は、その活動期間こそ短かかったものの、’70年代末期のポストパンクを代表するバンドの一つとして、後のオルタナティヴ ロックに多大な影響を及ぼし、世界各地に彼らのエピゴーネンを出現させることになる。

音響効果をベースにしたプロデュースという点で、マーティン・ハネットのスタジオ ワークは、ロキシー ミュージックの 『 アヴァロン 』 で印象的なエコー処理を施したミックス エンジニアのボブ・クリアマウンテン、ベーシスト 盟友バーナード・エドワーズとのコンビで、シャカシャカと切れの良いリズム ギターを得意とし、マドンナの 『 ライク ア ヴァージン 』、デヴィッド・ボウイ 『 レッツ ダンス 』 を皮切りに ’80年代後半を席巻したナイル・ロジャースと並んで、最大級に評価できる。 


1978 年 6 月 JOY DIVISION を名乗る

各方面で物議をかもした JOY DIVISION ~ ジョイ ディヴィジョンというバンド名はナチス・ドイツの強制収容所内に設けられたユダヤ人女性を性奴隷にする “ 快楽区 ” に由来する。
ポーランド出身のイディッシュ語・ヘブライ語作家イェヒエル=デ・ヌールがカ・ツェトニック 135633 の変名で 1953 年、発表した 『 HOUSE OF DOLLS - ダニエラの日記 』 ( または 『痛ましきダニエラ ― ナチに虐げられたユダヤ娘の死の記録 』 ) ( 蕗沢紀志夫 訳 ) の中からバーナード・サムナーが拾い出した。彼に拠れば、“ ひどく悪趣味だけど… パンクだ ” と感じた、とのことで、言わば若気の至りというやつである。
デ・ヌールの最も有名な作品の一つである本作のモデルは、ホロコーストで亡くなった著者自身の妹であり、その変名は虜囚を意味するイディッシュ語に自身の囚人番号を組み合わせたものである。デ・ヌールは、1961 年 6 月、アドルフ・アイヒマンの裁判に証人として出廷したが、質問に答える前に証言台で失神してしまった。デ・ヌールにとってナチスの記憶を語ることは、それほどに精神的負荷が高かったのだ。

『 Unknown Pleasures 』

1.Disorder
2.Day of the Lords
3.Candidate
4.Insight
5.New Dawn Fades
6.She’s Lost Control
7.Shadowplay
8.Wilderness
9.Interzone
10.I Remember Nothing







1979 年 6 月発表。
ピーター・サヴィルのアートワークは、パルサー  ( 超新星の爆発後に残った中性子星が放つ、パルス状の可視光線や電波 ) の波形を用いたものであり、ヴェルヴェット アンダーグラウンドやロキシー ミュージックのデビューアルバム、デヴィッド・ボウイ 『 ダイヤモンドの犬 』 といったロック史に残るジャケットと肩を並べても遜色ない。このジャケット デザインこそ、ピーター・サヴィルの作品の中で最も有名なものの一つであり、多くのオマージュ作品を生んだ傑作と言えよう。オリジナルのアナログ ディスクでは、このパルサーの波形はもっと小さく控えめにセンターやや上方に配置されており、ジャケットの台紙にはエンボス加工が施されて、触った際の質感が凄かった。
1979 年の全英アルバム チャートでは最高 71 位、インディー チャートでは第 1 位を獲得しており、『 ローリング ストーン 』 誌が選んだ  「 オールタイム ベスト デビュー アルバム 100 」 において第 20 位。 

低音がこもってしまいよく聞こえない という理由から、高音弦を用いたメロディアスなフレーズを得意にしていたピーター・フックのベースが、アルバムの一曲目から勢いよく飛び出し、非常に良く鳴っている。
この対位法的なベースとギターのアンサンブルは、イアン・カーティスの発案と言うことだが、JOY DIVISION の楽曲作りに関しては、イアン・カーティスのモニター能力が大いに活躍したとピーター・フックは語っている。“ イアンが全てのリフを見付け出したんだ。バンドが即興演奏をやる、するとイアンが演奏を止めて < 今のは良かった。もう一度やってくれ > と言う。そんな練習の中から 「 シーズ ロスト コントロール 」 などの数々の印象的なフレーズが生まれた。彼がいなければ、彼の耳なくしては、僕らはそれを一度演奏したきりで二度とやらなかっただろう。たいていは、それを演奏したことさえ覚えていなかったに違いない… だけど、彼は気付いていたんだ ”
セックス ピストルズのグレン・マトロック、ザ ストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルもそうであったが、パンク バンドのベーシストには意外や意外、作曲もできるテクニシャンがいる。一方で、シド・ヴィシャスやクラッシュのポール・シムノンの様にカリズマ性のみで記憶に残るミュージシャンを輩出したパートでもあるのだが…
加えてバーナード・サムナーの奏でるギターの音色、スティーヴン・モリスのリズム マシンを思わせる無機的なドラミング。マーティン・ハネットが施した音響トリートメントが見事に功を奏している。
ハネットの音響プロデュースを独占出来たこと、デビューアルバムのジャケット デザインの信じられないオリジナリティ、等々を思う時、JOY DIVISION は単にラッキーなだけのバンドだったのか ? といった素朴な疑問は当然、起こる。
しかし、このデビュー アルバムを体験すれば、そうした疑問を払拭して余りある完成度に驚かされるだろう。硬質なドラムの響きで幕を開けるオープニングの 「 Disorder 」 から、ロック的な快感原則にあまりにも忠実な 「 She’s Lost Control 」 「 Shadowplay 」 と、まさに聴くことを止められない脅迫的な 40 数分間が続く。
ところが、当の主役であるピーター・フックとバーナード・サムナーは “ 暗過ぎて、とても楽しめない。こんな暗いアルバム、誰も聴きやしない ” と思っていたというのだから面白い。世界でたった二人だけが、このアルバムを気に入らなかったわけだ。ただ、この暗さはイアン・カーティスの持つ資質に起因するところが大きい。演奏だけを取り出してみると、ちょうどパンクの嵐が沈静化し、ニューウェーヴの萌芽が垣間見られる正にその端境期に現れたバンド ということが良く分かる。
1978 年 1 月、ジョニー・ロットンはセックス ピストルズの空中分解に際して “ ロックは死んだ ” と発言したが、そのマニフェストによって荒涼とした原野に置き去りにされた殉教者たちが、このアルバムに救いを求めたのは当然の帰結だった。


1980 年 5 月 18 日 月曜日 イアン・カーティス 急逝

内省的な歌詞を書きヴォーカルを担当していたイアン・カーティスが、初のアメリカ ツアーに旅立つ前日、栄光の日々を目前にして、わずか 23 歳で急逝。持病の癲癇の悪化や鬱病、大量の投薬による情緒不安定 ( イアンのステージにおける独特なアクションやダンスは明らかにこうした症状の上に成り立っている ) 、イアンと妻のデボラそして彼と交流のあったアニーク・オノレ ( アニック・オノレ との記載もあり )との三角関係、等々が理由とされている。彼の最期の言葉は “ 最初から死んでいればよかったのに。今、この瞬間にも、そう思える。これ以上無理 At this very moment,I wish I were dead.I just can’t cope anymore.”
イアン・カーティスは、Q 誌の選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のシンガーにおいて第 88 位。

ヴォーカリストを失ったメンバーは話し合いの末、音楽活動を継続することを決意。ただし、イアンの生前に全員で結んだ “ JOY DIVISION の名前でのバンド活動は、メンバーが一人でも欠けたら行わない ” という約束に基づき、ナチスの掲げた新体制 New Order をその名に冠した。
残されたメンバーの苦闘の歴史は、そのままエレクトロニクス ポップの歴史でもある。

New Order は 1983年、盟友の死を悼んで、彼の自殺した月曜日をテーマに 「 Blue Monday 」 という作品を発表、改めて追悼の意を表した。フロッピー ディスクを模したジャケット、デジタル ビートを強調したダンサブルなエレクトロと無表情なヴォーカルが特徴的なこの作品は、史上最も売れた 12 インチ シングルとされており、流通のスタイルが激変した今日、この記録が破られることはないだろう とも言われている。当時、いわし亭もジム・フィータスの 「 CALAMITY CRUSH 」 とともにヘヴィローテーションした一枚だ。


渋谷陽一がホストを務めた NHK - FM サウンドストリートの国内未発売洋楽リクエストで、一曲目にオンエアされた『 CLOSER 』 のオープニングタイトル 「 Atorcity Exhibition 」  のインパクトは絶大だった。曲名は J.G.バラッドの著作 『 残虐行為展覧会 』 から取られているが、デ・ヌールの著作にも 『 Atorcity ( 愛と虐殺 ) 』 がある。

輸入レコード店に足繁く通うようになった当時のいわし亭は、愛読していた FOOLS MATE の Special Stock part2 ( Vol.15 1981 年 1 月 25 日号 ) で読んだ森田一義氏の JOY DIVISION と BAUHAUS の記事を想起し、『 CLOSER 』 の購入を決めた。森田氏の原稿で印象的だったのは、イアンの自殺からまだ一年も経ていない時期の記事でありながら、イアンの自殺をことさらセンセーショナルに取り上げなかったことである。

“ イアンの死は、非常に個人的なことだ。故に、その原因を我々が知る必要はない。では、我々はそれをどのように理解すればいいのか。それは娯楽と理解すべきだ。人食いという娯楽に、イアンは肉体を提供しただけだ ”
今日、再度原稿を読み返してみても、その指摘の的確さは見事である。


『 CLOSER 』

1.Atrocity Exhibition
2.ISOLATION
3.Passover
4.Colony
5.A Means To An End
6.Heart And Soul
7.Twenty Four Hours
8.The Eternal
9.Decades








アルバムのオープニングに配置されたあまりにも印象的な 「 Atorcity Exhibition 」は、『 CLOSER 』 のジャケットに描かれたシーンの B.G.M.のように聞こえる。チェーンソウのような唸りをあげるバーナード・サムナーのギター、呪術を思わせるピーター・フックのベース、ノミを打ち込むように鋭いスティーヴン・モリスのドラム。そして、闇の奥をのぞき見るイアン・カーティスのヴォーカル。さらに、全体を貫くのは、プリミティヴな躍動感に満ちた邪教的な気配である。
ロック バンドとしては実にオーソドックスなカルテットでの演奏にもかかわらず、レーベル メイト(The Durutti Column、Happy Mondays、Orchestral Manoeuvres in the Dark、A Certain Ratio、等々 ) や当時ファクトリー レーベルに並ぶもう一方の雄 4AD ( BAUHAUS、Cocteau Twins、Dead Can Dance、等々 ) といったレーベルのバンドとも、何かが決定的に違っていた。


本作においてもレコーディング システム A.M.S.の効果は絶大で、リズムを強調したダブ由来のサウンド処理は、正にこの後、’80年代を席捲するディスコ ≒ ニューウェーヴの先駆けとも言える音色を獲得している。これはイアンがもたらした圧倒的な闇の世界観とは真逆のサウンド メイキングとも言え、この相反する二つの性格がまるで “ 天国と地獄の結婚 ” のように違和感なく成立しているところに JOY DIVISION の特殊な立ち位置がある。
優れた作詞家を失って、残された三人が再スタートを考えた時、このディスコ ≒ ニューウェーヴ路線を拡大する方向性を選択したのは言わば必然であった。

実際、いわし亭もまずこのダンサブルなサウンドに魅了された。大学時代に大阪ミナミのディスコに行った際もすでに New Order にシフトしてかなりの時間が経っていたにもかかわらず、敢えて JOY DIVISION をリクエストした程だ。歌詞カードがなかった関係で、いわし亭がイアンの詩の世界に触れたのはややあってからだった。その意味では、メンバーがイアンの詩についてあまり気にとめていなかった というのと似たような状況だった とも言える。

バーナード・サムナー : “ 僕らは彼の詞に耳を傾けたことはなかった。それはとても奇妙なことだ… 自分たちの演奏に必死だったんだ。理解しようとしたけど、ついていくだけで精一杯だった ” 
スティーブン・モリス : “ そこにはたしかに多くの感性が宿っていたけど、当時は、彼は自分の仕事をしているってことにすぎなかった。彼は作詞家だった。歌詞にはドラムを叩くことより意義があるのも事実だけど、それも仕事の一環だったんだ ” 
ピーター・フック : “ 結局は、僕は自分の仕事にあまりに没頭していたから、彼が日常は言わなかった何かを必死で僕らに伝えようとしていたことに気付かなかった ”

アルバム自体はジャケットのデザインも含めて、イアン・カーティスの急逝より前に完成しており、正に痛恨の遺作となった。“ イアンの自殺を売り物にした ” といった一部のメディアの批判は全くの的外れである。
全英アルバム チャート最高 6 位 。1980 年末にニュー ミュージカル エクスプレス誌の特集で年間最優秀アルバムに選出されている。

「 LOVE WILL TEAR US APART 」

2002 年のニュー ミュージカル エクスプレス誌において、ロック史上最高のシングル曲に選定された JOY DIVISION 最大のヒット である ( 1980 年 5 月 英シングル チャート最高 13 位 )。 

検索してみるとすぐ分かるが、The Swans、THE CURE 、Arcade Fire & U2、David Bowie、等々かなりの数のカヴァー ヴァージョンにヒットする。驚かされるのは、イギー・ポップとバーナード・サムナーのコラボレーションだが、彼らのような大物アーティストですら無視できない何かが、この曲の中には見つかるのだろう。

一聴、すぐさまイアンの自殺と結びつけて解題することは簡単だ。確かにかなり深刻な内容が盛られた問題作ではある。しかし、歌詞はただの音であるというイアンの姿勢から、メンバーでさえ、これを彼の心情吐露とは考えなかったという。

ピーター・フック : “ 「 LOVE WILL TEAR US APART 」 は 3 時間で書き上げた。ある夜、僕らがあのリフを思い付くと、イアンが言ったんだ < 僕にアイディアがあるんだ > って。彼が目の前で歌ってくれた時、僕らはあれがデビーとアニークについてのものだとは思わなかった。ただこう思ったんだ。なんて素晴らしい曲だ。 いいぞ、イアンがまたやってくれた、って ”


イアンの極めて私的な心の葛藤をモチーフとしたこの作品は、“ 愛は、またしても僕たちを引き裂く ” という逆説的なリフレインを繰り返すことで、ラヴ ソングが文学にかわる瞬間を奇跡的に捉えている。
つまり、ここで歌われていることは、極めて個人的な私小説のような内容からスタートしているけれども、結果的に多くの人々の感情を揺さぶる普遍性を持っていた ということに他ならない。“ またしても  again ”  という単語には、このことは何時でも、誰にでも、何度でも 起こりうる という哀しい予感が込められている。< 愛 > ゆえに引き裂かれていく家族や恋人、友情や人間関係、社会関係からの隔絶、あるいは諦め、手離されていく野心や様々にわき起こる感情。そうしたものが、象徴的なキーワードによって、綴られている。

楽曲はバンドの演奏がどこまでも登りつめていく高揚感の中、コーダを迎える。最後のシングル曲を歌い終えたヴォーカリストの魂を残された三人の JOY DIVISION が天上の高みにまで誘うイメージは、正にレクイエムの様でもある。


When routine bites hard          日常がつらくなり
and ambitions are low           野心も消え失せて
And resentment rides high         怒りが高まっても 
But emotions won't grow          感情がついてこない 
And we're changing our ways,       僕たちはやり方を変え
taking different roads          別の道を歩み始める
Then love, love will tear us apart again 愛は、愛はまたしても僕たちを引き裂く
Love, love will tear us apart again    愛は、愛はまたしても僕たちを引き裂く
Why is the bedroom so cold        なぜ寝室はこんなに寒いのか
You`ve turned away on your side.     君は背を向けて眠る 
Is my timing that flawed?         僕のせいでひびが入り
Our respect run so dry.          尊敬し合う心も乾くけど
Yet there's still this appeal that    まだ惹かれているから
We've kept through our lives       僕たちは共に暮らしている
But love, love will tear us apart again  けれども愛は、愛はまたしても僕たちを引き裂く
Love, love will tear us apart again    愛は、愛はまたしても僕たちを引き裂く 
You cry out in your sleep         君は眠りの中で叫んでいる
All my failings exposed          僕の失敗をことごとく暴露した
And there's a taste in my mouth      口の中に苦味が残る
As desperation takes hold         自暴自棄に陥ると
Just that something so good just     うまくいっていたことが それ以上機能できなくなる 
can't function no more. 
But love, love will tear us apart again  けれども愛は、愛はまたしても僕たちを引き裂く


2012年、ニュー ミュージカル エクスプレス誌の 『 ソング ストーリーズ 』 シリーズで、インタヴューに答えたピーター・フックは、以下のように語った。
“ ( 「 LOVE WILL TEAR US APART 」 の歌詞が ) あまりに刺々しくて、悪意に満ちていることに衝撃を受けた ” “ これは性急に書かれた曲だったんだよね ” “ 正直言って、この内容に踏み込んで分析してみたのは、自分で歌うようになってからなんだけど ” “ この曲が自分に向けて書かれたものだったら本当に嫌だなあと思うよ ”

 

アートワークは例によってピーター・サヴィル。「 LOVE WILL TEAR US APART 」 のジャケットでは、イタリア ジェノヴァのスタリエノ墓地にある彫刻 ( 写真右 ) が使われているが、デザイン自体はイアンが亡くなる前から決まっていたという。

故郷マンチェスター郊外にあるマックルズフィールド セメタリーに埋葬されているイアンの墓石には “ IAN CURTIS ” “ 18-5-80 ” “ LOVE WILL TEAR US APART ” と刻まれている。
この墓碑銘を選んだのは、他ならぬイアンの妻 デボラである。

デボラはイアンのデボラへの愛がイアンに自殺を選択させ、そのことでアニークや JOY DIVISION との関係を断ち、イアンが自分の許にやっと帰ってきたことを実感したのではないだろうか。
あるいは、イアンの自己愛がデボラをも含めたあらゆる関係との決別を意図して、自殺を選ばせた と考えたのかもしれない。しかし、それではあまりにも哀しすぎる。

“ 無理からぬことだが、この歌詞はメディアには、うまく行かなかった恋愛関係についての歌であると解釈された… 
火葬場で、私が墓石に刻むために選んだ語句をロブ・グレットン ( JOY DIVISION のマネージャー ) に伝えた時、彼は茫然としたが、その言葉は変えるところはほとんどなさそうで、私が言いたかったことすべてを要約しているように思われた。
< 愛が私たちを引き裂いていく > という表現は、私たちみんながどのように感じたかをとてもうまく表していた ”
( デボラ・カーティス 『 タッチング フロム ア ディスタンス 』  より )

「 AtomosPHERE 」

葬儀の B.G.M.として非常によく使われるロック ナンバーの一つ。ピーター・フックは、ロビー・ウィリアムズの 「 エンジェルス 」  が結婚式で最も頻繁に使用される一曲であることに触れ、“ 本当に俺たちの方こそ 「 エンジェルス 」 を書きたかったなあ って正直、思ったりするよ ” と言うが、同時に 「 アトモスフィア 」 にもプライドを持っており、“ 自分の葬式でも、かけてもらうつもりだ ” と語った。

『 Substance 』

1.Warsaw
2.Leaders OF Men
3.Digital
4.Autosuggestion
5.Transmission
6.She’s Lost Control ( 12 Inch Version )
7.Incubation
8.Dead Souls
9.AtmosPHERE
10.Love Will Tear Us Apart
11.No Love Lost
12.Failures
13.Glass
14.From Safety To Where
15.Novelty
16.Komakino
17.These Days

JOY DIVISION はディスコを想定したロングヴァージョンの12インチ シングルを数多くリリースしているが、彼らはオリジナル アルバムにシングルを収録しない方針だった。従って、これらの収められたベスト盤は別の意味で重要なアイテムである。
なお、同タイトルで1987年までの New Order の軌跡をたどったものもある。 






JOY DIVISION に関するブログとしては “ 愛語 ” がある。これ以上の分析を施したサイトをいわし亭は寡聞にして知らない。多方面にかつ詳細に、まとめられた素晴らしいサイトであり、この記事のデータはそのほとんどをこのブログとドキュメンタリー映画 『 ジョイ ディヴィジョン 』 、未亡人となったデボラ・カーティスの著した 『 タッチング フロム ア ディスタンス 』 から得ている。感謝と敬意を表したい。


<関連記事>
イアン・カーティスと親交を温めたジャーナリストのアニーク・オノレが他界 ( 2014.7.5 )

今日はイアン・カーティスの 35 回目の命日。ジョイ・ディヴィジョン全曲が披露される!( 2015.5.18 )











2014年5月23日金曜日

美輪明宏 畢生の舞台 ~ 「 愛の讃歌 」 は誰に捧げられたのか


1979年の初演以来、美輪明宏が大切に再演を繰り返している 『 愛の讃歌 ~ エディット・ピアフ物語 』 の舞台を見た。

エディット・ジョヴァンナ・ガションは 142cm の小柄な女性で、パリジャンの俗語で “ 小さな雀 ” を意味するピアフという芸名を授けられた。日本が誇る世界の歌姫 “ 美空ひばり ” もまた鳥の名を芸名に冠しており、この奇妙な偶然は興味深い。
多くの歌手がカヴァーし、もちろんピアフの代表曲でもある 「 愛の讃歌 」 が初演されたシチュエーションは、まるで初めからそのように定められていたかのように劇的である。どのような作劇の叡智も遙かに及ばないトラジディ。究極の愛の歌は、こうして遂げられることのなかった魂の鎮魂歌へと昇華する。しかし、この曲によって本当に讃えられたのは誰だったのか…


舞台 第一幕

日々の糧を得るために街頭で歌う無名のエディット・ジョヴァンナ・ガションは、ナイトクラブのオーナー ルイ・ルプレーによって見出され、スターの階段を上って行く。


舞台 第二幕

パリの酒場で歌っていたピアフは、ボクシング ウェルター、ミドル両階級の欧州王者であったマルセル・セルダンと出会う。
セルダンは “ どうして悲しい歌ばかり歌うの? ” と聞き
ピアフは “ どうして殴るの? ” と聞き返した。
このくだりはまるで、ジョンとヨーコの物語の序章を思わせる。二人は世紀の大恋愛に落ちた。がしかし、セルダンには妻子があり、これは同時に世紀の大不倫でもあった。

そして運命の 1949 年 10 月 28 日。セルダン他界。この時、ピアフ34歳。

「 愛の讃歌 」 が初演されるまでの事実関係については諸説ある。例えば、ピアフは妻子がいるセルダンとの関係に終止符を打つため、 「 愛の讃歌 」 を作ったという説。そうした事情から、イベット・ジローにこの曲を歌ってもらうことになっていたとも。
ここでは、この舞台のストーリーにそって書き進める。

「 愛の讃歌 」 を完成させたピアフはニューヨークにいた。セルダンもまた惜敗した現王者ラモッタとの再戦のため、ニューヨークへ行くことになっていた。当初、航路で行くつもりだったセルダンに、初披露する 「 愛の讃歌 」 を聴かせたくて、ピアフはリサイタルに間に合うようセルダンを急かした。そこでセルダンは空路を取ったが、彼の乗った飛行機はアゾレス諸島に墜落し、彼は亡くなってしまう。
諸説がどうであれ、「 愛の讃歌 」 はもう二度と会えなくなったマルセル・セルダンに捧げるため、ニューヨークのクラブ ヴェルサイユで、ピアフ自身によって初演された。これは事実である。ピアフの大親友であったマレーネ・ディートリッヒは、歌詞の中に ♪ あなたが死ねば、私も死ぬ という一節があるため、歌うことをやめるよう説得したが、ピアフは聞きいれず、 「 愛の讃歌 」 をまさに熱唱した。そして倒れる。

この舞台、最大の見せ場がここにあることは疑いようがない。
数々の葛藤を乗り越えて初演された 「 愛の讃歌 」 が与える怒濤のような感動は、もはやくいとめようもなく、劇場にいた人々を圧倒した。それにしても、ピアフの魂が憑依したかのような美輪明宏の存在感、完璧に歌い上げられた歌の力の凄まじさはどうだ。事ここに至ってはもはや、号泣あるのみ…
そして、美輪さんがリサイタルなどで常々、この歌を紹介する際に仰るあの有名な岩谷時子の訳詞 ( ではなくもはや作詞と言ってよい ) 、多くの歌手がカヴァーしている ♪ あなたの燃える手で~ という内容へのお怒りは、ごもっともだと感じる。岩谷時子の作詞は意訳としては、かろうじて認められても、実際の 「 愛の讃歌 」 はそのような歌ではないからだ。美輪明宏は 「 愛の讃歌 」 を原詩 ( 当然、フランス語 ) で歌うが、その前にその意味を朗読するかのように、パントマイムを交えて語る。


高く青い空が落ちて来たって 
この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要な出来事だって
どうってことは ありゃしない

(中略)
もしあなたが望むんだったら この金髪だって染めるわ 
もしあなたが望むんだったら 世界の涯だってついて行くわ 
もしあなたが望むんだったら どんな宝物だって お月様だって盗みに行くわ

(中略)
そしてやがて時が訪れて 
死があたしからあなたを引き裂いたとしても それも平気よ 
だってあたしも必ず死ぬんですもの 
そして死んだ後でも 二人は手に手をとって 
あのどこまでもどこまでも広がる 真っ青な空の 
碧の中に座って永遠の愛を誓い合うのよ
何の問題もない あの広々とした空の中で

そして神様も そういうあたし達を
永遠に祝福して下さるでしょう



いわし亭もこのシチュエーションで舞台を勤め上げたピアフの歌手としての覚悟の大きさに素直に感動してしまった。この舞台は、実は今から10年くらい前にも一度、見ているはずだったのだが、今回の方がはるかにインパクトが大きかった。今後はこの歌も 「 ヨイトマケの唄 」 と並んでいわし亭号泣ソングに格上げされた感満点で、非常にヤバい ( 苦笑 )
ピアフの代表曲である 「 愛の讃歌 」 は悲劇の象徴となってもなお、ピアフの代表作であり、封印されることなく歌い継がれたのだ。


しかし、もう一つの感動はもっと静かにひたひたと観客に忍び寄る。


私は、ただひとりの男しか愛さなかった。
その名はマルセル。
ただひとりの男だけが、私のもとから去らなかった。
その名はテオ。


舞台 第三幕

セルダンとの悲恋に終止符を打ったピアフは、その後、かなりの間、精神的な暗夜をさまようことになる。セルダンの魂を呼び出そうとして、あやしい交霊術にハマったり、麻薬に手を染めたりした。この辺りのピアフの迷走は、美輪明宏の 「 老女優は去りゆく 」 という名作の中で描かれているシーンにオーバーラップする。
この絶望的な状況から再生していくピアフ、第二の人生を彩るテオ・サラポ ( テオファニス・ランボウカス ) との関係が第三幕では描かれる。20歳もの年の差カップルではあったが、二人はたくさんの祝福を受けて結婚する。
サラポは、もともとヘアドレッサーで歌手志望ではなかった。けれども命を削るようなピアフの指導の下、彼は歌手 ( 「 恋は何のために 」 という二人のデュエットがある )、俳優へと転身し、ピアフの死後も彼女の借財を7年にわたり独力で全て返済した。そしてそれを終えると、肩の荷を下すかのように交通事故で亡くなった。サラポの最後の言葉は “ ぼくをペールラシェーズ墓地の妻の隣に葬ってほしい ”。

実は派手さはなくとも、『 愛の讃歌~エディット・ピアフ物語 』 というドラマの核心部分は、セルダンを失い、身体も心もぼろぼろになって、名声からも見はなされた後のピアフとサラポの愛の日々ではなかったか。このサラポからピアフへの無償の愛こそ、讃歌に値するものである。この 『 愛の讃歌 』 という舞台はそれゆえに、この第三幕にこそその本質があり、それこそ美輪明宏が伝えたかったことのすべて という気がする。

晩年のピアフ ~ とはいえ、彼女が亡くなったのはわずか47歳。テオとの結婚からたった1年後であった ~ は経済的には不遇だったかもしれない。確かに短かった。短かかったけれども、ピアフとサラポの日々は、穏やかな幸福に満ち足りていたに違いない。




『 BRAVA DIVA MIWA 』

 1.ふるさとの空の下に
 2.僕は負けない
 3.四十なんて嫌だよ
 4.昼メロ人生
 5.マダム カチカチ
 6.ミロール
 7.メケ メケ
 8.ボン ヴォワヤージュ
 9.黒蜥蜴の唄
10.愛のボレロ
11.ヨイトマケの唄
12.金色の星
13.愛の讃歌




セルフカヴァーや 「 ミロール 」 「 マダム カチカチ 」 など実況録音盤以外では初音源化となる 4 曲を加え、約七年ぶりにリリースされた全曲新録音のオリジナル アルバム。全曲集や旧譜の復刻ばかりで、2014 年、今現在の美輪さんの歌声が聴けないことに、不満だったたくさんのファンの溜飲を下げる一枚となることは間違いない。






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#2 美輪明宏

 #2.1 「 ヨイトマケの唄 」 ~ かつて日本語で歌われた中で最も優れた唄
 #2.2 「 愛の讃歌 」 は誰に捧げられたのか?






2014年4月18日金曜日

灰野敬二 ~ 魂の司祭 サンヘドリン大阪に降臨/インプロヴィゼーション ( 即興音楽 ) とは何か?

インプロヴィゼーション ( 即興音楽 - 灰野敬二は “ インプロヴィゼーション ” という言葉を嫌うことで有名ではあるが、ここでは一般的な記号として普及している呼称を用いることとする。ご容赦いただきたい ) というと、誰にでも出来る出鱈目 と概ね曲解されていて、もちろん世の中にはそういう勘違いも含めて即興の中にカテゴライズされるものは沢山ある。ただし、リアルタイムの即興の中で、鑑賞に値する音楽を生み出すには恐るべき自己鍛錬と強い精神力、継続的な演奏を支える体力や手癖に陥らない技術が必要だ。
それゆえにインプロヴィゼーションの時空間の中で、演奏家にかかる負荷は尋常ではない。
さて、灰野敬二である。


2014.3.20 サンヘドリン @心斎橋CONPASS


インプロヴィゼーションというフィールドにおいて、極北を行くギタリストこそが灰野敬二である。そして彼が恐るべき集中度で放射する音塊に、瞬時に対応できるスキルを達成している吉田達也 ( ドラム )、ナスノミツル ( ベース ) の最強超攻撃的リズム セクション。これがロック トリオ “ サンヘドリン ” である。頭痛薬と間違えそうなこの名は、ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織に由来する。そのポテンシャルは、極端な話、灰野敬二のパーマネントなグループ “ 不失者 ” をも上回っているのでは!? と思える瞬間さえある。

インプロヴィゼーションとはしごく簡単に言えば、作曲と演奏を同時に行うことだ。
そのプロセスをもう少し説明すると、意識を集中した即興音楽家に、次に鳴らすべき音が降りてくる。即興音楽家はそのインスピレーションを具体的な音響へ変換するために最適なコードやフィンガリングを瞬時に選択していく。ある意味、これは空間を飛び交う電波を受信し、映像へと変換する TV アンテナとモニターの関係に似ている。アンテナやモニターの能力が不十分であれば、歪んだ見づらい映像しか得られない。勘違いの許に提供されるインプロヴィゼーションのほとんどは、このノイズの多い映像なのだ。
即興演奏家はインスピレーションを正確にトレースするためにテクニックやスキルを磨き上げる。そのレベルが高いほどトレースの精度も上がる。逆に言えば、インプロヴィゼーションは降りてきた音を再現するテクニックやスキルに上限があるほど、つまらないものになる。つまらないとは、要するにどの視点においても評価するに値しない ということだ。誰にでも出来ると思われている出鱈目は、このレベルに留まっているから、つまらないのである。


もちろん灰野敬二は、自分がこれから出そうとしている音について全て分かっているし、同じ演奏を何度でも再現できる。それは、プロ棋士の感想戦において、何手目かの盤面を即座に再現できるプロ棋士の記憶力に驚嘆させられるのと同じレベルの技術である。アマチュアにもプロフェッショナルを凌駕する瞬間がないとは限らない。しかし、アマチュアはその瞬間を再現できないがゆえにアマチュアなのである。
また、音響化のための体力も尋常でない。音に対する感覚を研ぎ澄まし、降りてきた音を正確に再現するためには、想定外の奏法をいくつも要求されるかもしれないし、手癖に堕したメロディなどはお呼びではないからである。
インプロヴィゼーションにリハーサルがあるとも思えない。リハーサルを経た音楽は二度目の演奏と言うことになり、生き生きした感覚を著しく失うだろう。バンドのメンバーはあくまでも個人練習のレベルで、技術を高め、それぞれが演奏の場にやって来て、現場では正に試合をやる様に、その場その場の展開に応じ、臨機応変に音を出していく。

灰野敬二が動機を与える。その時間、その場所に到るまでの、感性・緊張感・体調など一期一会の様々な要因が動機に反映される。それに即応して、ドラム パート ベース パートも動く。いわゆるコード進行を基底において行うジャズのインプロヴィゼーションでもなく、またそうした制約すらも解き放ったフリー ジャズほどアヴァンギャルドでもなく、正にこれはロックのフィールドにおけるインプロヴィゼーションなのだと思わされる。
フリー ジャズの場合、音の一つ一つの凄味がもたらす一瞬のインパクトは素晴らしいのだが、初めてこうした音塊に接した時、どのように聴けばいいのか分からなくて、戸惑わされることがある。サンヘドリンの演奏では、凄まじいギター サウンドにドラムとベースがフレームを与えることにより、ここで鳴らされている音は限りなくロックに近づいていく。画家が描こうとする風景を親指と人差し指で作った窓で決めていく様に、ドラムとベースがギターの音塊からフォーカス ポイントを切り取って、リスナーにガイドラインを提示してゆく。結果として、ここで生まれたインプロヴィゼーションは高い緊張感と耳を奪う音塊の連続で、その場にいる者を終始圧倒し続けた。これは紛うことなくロックの音だ。
単なる手癖の産物ではない、湧き出ずる泉のような創造の連続は、おそらく提示する側にも相当の心理的肉体的軋轢を負荷すると思われ、毎回これを完走してのける灰野敬二と言う人物が常日ごろ、如何にストイックな生活を自らに強いているのかが伺われた。正にインプロヴィゼーションの鉄人である。


灰野敬二は演奏している姿が美しい。痙攣気味に震えながら、ギターの弦をかき鳴らすそのフォルムは、正に音楽の真相、深淵に奥深く分け入ろうとしている学究者のそれであり、立っているものが全て倒れた後も屹立し、恐るべき求心力で我々の耳を捕まえ続けるのだろう。
灰野敬二の演奏を聴くことは、正に即興演奏家が降りてきた音をとらえ、それを音楽として編み上げていくプロセス、音楽が生まれ出る瞬間に立ち会うことである。
原始地球でどのような段階を経て、生命が誕生したのか? その秘密を解き明かすかのように、人間と音楽の原初的な関わりにおいて、音楽が生成されてくる様子をまざまざと見せつけられるこの実験室のような場所は、正に神の司る空間に等しいとさえ思える。





『 IN THE WORLD 』

灰野敬二がDJとして活動すると聴いた時は、にわかに信じられなかった。しかし、灰野敬二の中の埋蔵量の一端が開示されるのであれば、こんなに嬉しいことはないと、その完成を心待ちにしていたのだが、ついに登場の “ experimental mixture ” 初のオフィシャル作品は、なんと3枚組の大作アルバムとしてドロップされた。
それはカントリー、ヒップホップ、クラウトロック、サイケ、プログレ、エレクトロニカ、アフロ、ジプシー、ジャズ、バロック、クラシック、ハードコア、ロック、ポップス、ノイズという全ての音楽ジャンルに加え、ケルト、アイヌ、チベット、ネイティヴ アメリカンなど世界中の民謡、民族音楽さえ含む、トータル5時間に及ぶ音源からカットアップ、パズルのように組合わされた音響万華鏡であった。
これはもはやジャンル、国境を越えて、歴史、宗教、文化、人種… 地球の万物全てを包み込んでしまう超重量級の事件である。

DISC 1: 7 tracks ( 48分 )
DISC 2: 8 tracks ( 60分 )
DISC 3: 5 tracks ( 42分 )


灰野敬二インタヴュー by OTOTOY ~ 灰野敬二がDJ名義として初音源をリリース!?

まぶしい いたずらな祈り~不失者 2DAYS @難波 ベアーズ 2012 年 9 月 20 日