2013年6月28日金曜日

ロックが持ち得た最も濃厚な一年~セックス ピストルズから有限会社パブリック イメージへ


デニス・モリス デザインによるロゴ マークを配したTシャツ


5月に京都で映画を見た際に、受付のお姉さんに “ ピー アイ エル お好きなんですか? ” ( PiL こと Public Image Ltd./有限会社パブリック イメージ は、最新アルバム 『 This is PiL 』 の中で、ジョン・ライドン本人にピルと歌われているが、いわし亭は ピー アイ エル と呼ぶのに慣れているため、ピルと発音することには、結構な違和感がある ) と声をかけられた。理由は至極簡単で、PiL のロゴが入ったTシャツを着ていたからだ。
ある意味、PiL という記号を共有できるロック ファンは今時、希少といってもいいかもしれないし、だからこそ、お互い初対面でありながら旧知のように同じバンドの話題で盛り上がれるのは、共同戦線を張る戦友を見つけたようで、うれしくもある。
では、そもそも PiL とは何なのか?

半世紀を超える歴史の中で、ロックは大きな節目を三回迎えている。この説には異論も多々あるかとは思われるが、歴史的な連続性が非常に分かり易いので、いわし亭はこの説を支持している。
1969年9月26日 ビートルズがラストアルバムである 『 アビイ ロード 』 リリース
1969年10月10日 キング クリムゾンがデビューアルバム 『 クリムゾン キングの宮殿 』 リリース
1975年4月25日 第一期キング クリムゾンがラストアルバムである 『 USA 』 リリース
1975年11月6日 セックス ピストルズがセントマーティンズ カレッジ オブ アートで最初のギグを10分間、行う

こうしてみると、ビートルズ、キング クリムゾン、セックス ピストルズという時代のエポックが、バトンを受け渡すように連続的に起こっていることが分かる。一つの流れとして、レガシーなロック→プログレ→パンク というロックの歴史が垣間見えて興味深い。

このエポックではあったが短命だったセックス ピストルズが、全米ツアー半ばにして空中分解した後、そこでヴォーカルを務めたジョニー・ロットンは、個人的な資質からレゲエ、ダブ ( シングル盤のB面のカラオケを作る際、リズムトラックを過剰に強調してミキシングし、さらにエコーやリバーブをトリートメントするレゲエ メソッドの一つ。ジャマイカで機械に強かったキング・タビーがはじめ、英国のエイドリアン・シャーウッドがひとつの音楽ジャンルに大成した ) に傾倒、そこに志向を同じくする友人ジャー・ウォブル ( ベース ) 、キース・レヴィン ( ギター ) が加わることで恐るべき化学反応が起こり、突然変異のように PiL が生まれた。PiL は、ポスト パンクがニューウェーヴへ向かう中でも最も重要なユニットのひとつである。

パッケージの常識を破った缶入り、3枚組 45回転レコードで構成され
た『Metal Box』(1979年11月)。
このような変則的なリリースをレコード会社がすんなりOKするはずもな
く、製造費用27000ポンドの内、缶の代金20000ポンド(当時のレー
トで何と9000万円!)は、PiL側の負担になった。ジョンはこの借金の
返済に18年もかかった。

1979年、当時愛読していた 『 週刊FM 』( 音楽之友社 1971年-1991年) に、こうしたイギリスの状況を現地から特集した水上はる子さん ( 『 ミュージックライフ 』 の 1974年から 1978年までの編集長 ) の記事が載っていて、いわし亭は初めてこのあたりの情報に接するのだが、曰く、“ 従来の音楽フォームを解体したノイズとしか表現できないサウンド ” 。実際の音に接する機会のなかった片田舎の青年にしてみれば、どんな音なのだろう と想像を膨らませるしかなかったわけだが、切望していた音が聴けたのは、その2年後である。
映画のフィルムを収めるような金属の缶に 45 回転 12 インチシングルが 3枚納められたセカンドアルバム 『 Metal Box 』 。同じく 『 週刊FM 』 の記事には、ジョン・ライドンがハイエンドなオーディオマニアであることが明記されている。45 回転 12 インチシングルにこだわったのは、当然ながら音質の追及のためであり、現在入手可能なリミックスCD でさえこのアナログ盤のベースの重低音には到底及ばない。
初めてこのアルバムを難波の輸入盤屋の棚で見つけた時は、その異様な雰囲気がタダならぬものを感じさせた。音楽誌の“探しています”的なコーナーで書かれていた“缶に入ったビシっとしたやつよろしく” という文言の意味が、そしてそのアルバムの命名の由来がその時、初めて分かったのだった。

セックス ピストルズの衝撃は、まずヴィジュアルにあった。今や世界的なデザイナーとなったヴィヴィアン・ウエストウッドは、安全ピンや鋲といった SM の要素を採り入れた前衛的なファッション スタイルでバンドを武装した。
マルコム・マクラーレンは、1974 年の渡米時にニューヨーク ドールズに関わった経験と当時、ニューヨークのアンダーグラウンドで萌芽したNYパンクの熱気を英国に持ち帰り(例えば、テレヴィジョンのリチャード・ヘルの短く逆立てた独特のヘアスタイル、破けたメッセージ シャツ など)、仕掛け人としてバンドのサウンド面をプロデュースする。ちなみに当時、ウエストウッドとマクラーレンは夫婦だった。
強烈なビートやノイズを伴うシンプルだがメロディアスな 3コードのロックとボンデージ ファッション。この二つが絶妙に絡み合いセックス ピストルズとして具象化された時、閉塞感の強かったイギリスの社会状況に不満を持つティーン エイジャー達は、それを全く新しいカルチャーとして歓迎し、社会現象になるほど熱烈に支持した。音楽とファッション。このキーワードがこれほどまでに合致したムーヴメントは、ビートルズやローリング ストーンズ、ザ フーの活躍した、1964 年頃のブリティッシュ インヴェイジョン以来のことではなかったか。
そして、そのフロントマン 腐れジョニーことジョニー・ロットンは、稀代のカリズマとなった ( 1986年に創刊されたイギリスの一般的な音楽雑誌 “ Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のシンガー ” において第 16 位 )。



手の甲が隠れるほど長い袖のガーゼ Tシャツを着て、マイク スタンドにしなだれかかるようにだらしなく、しかし怒りに燃える目つきで凶悪に歌うジョニー・ロットンの姿 ( ジュリアン・テンプル監督作品 『 ザ グレイト ロックンロール スウィンドル 』 など ) は、一目見たら決して忘れられないものだ。単語の一音一音を奇妙に誇張し、巻き舌でまくしたてる発声法や美声には程遠い鼻声も、従来のヴォーカリストにはないもので、それもまたパンク ロックのヴォーカリストのスタンダードとなった。その後、パンクはジョニーのエピゴーネンばかりになり、リスナーはおろかジョニー本人もすっかり辟易する羽目になるのだが。

1978 年 1月 14日 サンフランシスコ、ウインターランド公演後に、ジョニー・ロットンはバンドからの脱退を示唆し、“ ロックは死んだ。だがポップは生きている ” と語った。この場合、“ ロック ( の再生を目指したセックス ピストルズ ) は死んだ。だが、ポップ ( が好きなジョニー・ロットンは ) 生きている ( から、しぶとく音楽は続けるぜ ) ” と理解するべきなのだろう。
米国の雑誌 “ ローリング ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100組のアーティスト ” において第 60位に選出された稀代のバンドのフロントマンという立場を捨て、自らの声明に準ずるように腐れジョニーは本名のジョン・ライドンを名乗り、PiL の結成に向かう。だが、PiL の特殊な音楽性を理解するためには、まずジョン・ライドンがいかなる人物なのかを紐解く必要がある。

英国におけるアイルランド移民は、黒人同様、最下層に近い差別を受けていた。またジャマイカをはじめとするカリブ地域からの移民もまた、人種的な差別を受けた結果、貧しい生活を強いられており、彼らはお互い通じ合うところが多かった。アイルランド移民にとって、ジャマイカの文化、特にその音楽は耳に馴染んだものであった。
社会への不満を訴える労働者階級から多くのパンクスが生まれ、彼らが音楽を武器に闘おうと考えた時、1975 年以降のクリエイティヴなジャマイカ音楽が得意としたダブの実験的手法やラスタの自然回帰的な思想を選択したのは半ば必然だったのだ。パンクスとイギリスのレゲエ アーティスト達は、人種は違っても問題意識は共通しており、それが大きな連帯となって、ジョイント ツアーさえ行うようになった。例えば、ストラングラーズやビリー・アイドルを擁したジェネレイションX はスティール パルス、イアン・デューリーはマトゥンビ、エディ & ザ ホット ロッズはアズワッド というふうに。

アイルランド移民の両親のもと 1956 年1 月 31 日にロンドンのフィンズベリー パークで生まれ、三人の弟と貧しい労働者階級の中で成長したジョン・ライドンにとってもまた、ジャマイカの音楽や文化は身近な存在であった。1994 年に出版されたジョン・ライドンの自伝は、ロッキングオンから 『 Still a Punk 』 というタイトルで日本版が出ているが、本来のタイトルは 『 No Irish,No Blacks,No Dogs/アイルランド人、黒人、犬はお断り 』 である。
セックス ピストルズはストレートなパンク バンドであったが、脱退したジョン・ライドンが次に向かったのがダブやレゲエであったことには、彼の背負っていた社会的背景と密接な関係があったのだ。

パンク ロックからポスト パンク、ニューウェーヴへの一連のモーヴメントの中で、なぜ彼らがジャマイカの音楽を積極的に取り入れたのか? は、いわし亭にとっても、長年、疑問であった。こうして、インターネットで当時の重要人物の発言やインタヴューが簡単に読めるようになって、正に目からうろこの落ちる思いである。
パンクスやレゲエのミュージシャンの唄は、自分を取り巻く不快でしかない環境を破壊しようとする切実な叫びであった。まず現状を変えて行こうとする強い意思があり、音楽は手段でしかなかったのだ。わずか数年で、パンクが単なる産業音楽の一スタイルに堕し、その表層だけがつまみ食いされていく歴史は、正に痛恨以外の何物でもないが、それでも 1975 ~ 1979 年当時の英国の音楽シーンには、非常に魅力的な瞬間があったことも確かなのだ。

ジョン・ライドンはセックス ピストルズを脱退後、当時のヴァージン レコードの社長 リチャード・ブランソンとジャマイカに出かけている。センスあふれるレゲエ リスナーであったジョン・ライドンに目をつけたブランソン社長が、ジョンにヴァージン レコードの A & R ( Artist and Repertoire : アーティスト アンド レパートリー/アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する。実際にはそれだけでなく企画、制作、宣伝に至るまでレコード会社の業務全般に幅広く責任者として携わるポジション ) としてジャマイカに同行するようオファーを出したのだった。このコラボレーションをきっかけに、1978年 ヴァージン レコード内に 『 フロントライン レゲエ レーベル 』 が設立されたのである。

このジャマイカ行きには、ドン・レッツとデニス・モリスという二人の伝説的な人物も一緒だった。

手前の人物こそドン・レッツである
ドン・レッツ : パンクとレゲエの重要な橋渡し役のひとり。両親ともにジャマイカ出身だが、自身はロンドン生まれのジャマイカ人 第一世代である。彼はこの時、初めてジャマイカに渡航したが、“ 当時の俺がジャマイカについて知っていることのすべては、映画 『 ハーダー ゼイ カム 』 だけだったよ。で、ジョンの誘いに乗ってジャマイカに行ったんだが、驚嘆すべき経験だったね。俺の < レゲエ ヒーロー > たちに、直接会えたんだから ! ” と語っている。
セックス ピストルズに拮抗するもう一方の雄 ザ クラッシュ ( “ ローリング ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100組のアーティスト ” において第 28 位 ) の全てのビデオ クリップを手掛けており、彼らとの仕事で特に大きな実績を残している
ドン・レッツが 2006 年に出版した 『 CULTURE CLASH : DREADS meets PUNK ROCKERS 』 には、当時のジョン・ライドンに関する興味深い記述がある。

“ オレとジョン・ライドン、ジョー・ストラマー、そしてスリッツのアリ・アップ ( 後にライドンは彼女の母 ノラと再婚した ) は、ダルストンのレゲエ クラブ < フォー エイセズ > でよく時間を過ごした。スピーカーが天井まで積み上げられた狭く暗い場所だったけれど、そこではガンジャと酒、熱気、低音のコンビネーションを愉しんだものだ。< フォー エイセズ > は、イギリスのレゲエ クラブの中でもハード コアなクラブだったから、白人はジョンとジョー、アリ・アップぐらいしかいなかった。だからこそ彼らはリスペクトを集めたんだ ”
件のレゲエ クラブ < フォー エイセズ > はおそらく、普通の白人では到底入れない雰囲気の場所だったのだろう。異邦人であった彼らにとって、このハード コアなクラブは居心地の良いところだったようだ。

ジャンルを問わず、このアルバムをオールタイ
ム ベストに挙げるリスナーは多い
デニス・モリス : 小学校の最後の年に、初めて英国ツアーに来たボブ・マーリーに直訴し、公式カメラマンとして唯一、撮影を許された。その二年後、ボブ・マーリー自身、最高の出来だったと自負する1975年のライヴを収めたボブ・マーリー アンド ザ ウェイラーズ 『 Live! 』 のジャケット写真を撮影する。
レゲエ ファンであったジョン・ライドンが、デニスが撮影したボブ・マーリーの写真を見て、デニスに興味を持ち、連絡を取ったことから、セックス ピストルズとの関係も始まり、ジョンについては私生活を含め、PiL 結成以降の活動も引き続き撮影した。オリジナリティあふれる PiL のロゴ マークやレコード ジャケットなどを共同製作している。

デニス・モリスの語る PiL 前夜に当るこのジャマイカ旅行の模様は、なかなかスリリングな示唆に富んでいる。
“ ジャマイカに着いた瞬間は、現地のジャマイカ人がジョン・ライドンを見て < ピストルズのジョニー・ロットンだ! > って大騒ぎだったね。現地では、ビッグ ユースとかマイティー ダイアモンド、U-ROY、グレゴリー・アイザックスとか、数々のアーティストに実際に会って、ヴァージンとの契約をしたよ、あとリー・スクラッチ・ペリーのスタジオにも遊びにいったしね。
当時のリアルなジャマイカのダブやレゲエの音楽を聴いて、ジョン・ライドンもすごい感化されて、それが PiL っていう新しいバンドを考えるきっかけになっているんだ。このバンドのサウンド メイキングには、ダブの要素が相当強いんだけど、それはこの時、ジャマイカに行って得た影響が一番大きいと思うね。このジャマイカ ツアーを終えて、ロンドンに戻る時、既にジョン・ライドンの頭の中には新しいバンドのことがあったんだ。そして彼は、ベースのジャー・ウォブルとギターのキース・レヴィンをピッ と思い浮かべたんだよ” 

1978年12月、ジョン・ライドンはついにファースト アルバム 『 PUBLIC IMAGE 』 をヴァージン レコードから発表する。ところが、一般的なリスナーにとって、レゲエやダブの先鋭的なサウンドはやはり理解し難く、このアルバムは発表当初、決して商業的に成功したとは言えなかった。
しかし、いわゆるティーン エイジャーのカリズマであったジョン・ライドンの影響力は決して小さくはなく、レガシーなロックに固執していたリスナーが、全く新しいサウンドにチャレンジする機会を提供したことの意味は大きかった。リスナーにとってのポスト パンクの胎動もまた、このアルバムから始まったと言って良い。




パブリック イメージ 

1. テーマ

2. レリジョン I
3. レリジョン II
4. アナリサ
5. パブリック イメージ
6. ロー ライフ
7. アタック
8. フォダー ストンプ



ジョン・ライドンの鼻声、ジャー・ウォブルのダブ由来の地を這う重低音のベース、キース・レヴィンの神経質でひっかくような不愉快なギター ノイズ。これらが混然一体となって、レガシーなロックへの死亡宣告がなされた。ジョン・ライドンは自らの出した声明に忠実に “ ロックは死んだ ” ことを示して見せたのだった。その破壊力たるや凄まじく、シンプルな先祖返りでしかなかったパンク ロックは、ポスト パンクの時代へと突入させられる。それは後にニューウェイヴ/オールタナティヴと総称され、多様なスタイルを模索する実験的なムーヴメントとして認識された。
彼らは先鋭的な音楽センスを持ってはいたが、決して天才的なミュージシャンとは言い難かった。そうした彼らが何故、このようなラジカルで革新性に満ちた音楽を創造しえたのか。PiLとは時代の希求した必然であったのか?



ジョン・ライドン、ジャー・ウォブル、キース・レヴィン。三人三様に、触れれば切れるほど研ぎ澄まされ、ヒリヒリした感覚が閉じ込められた傑作 PV。このような PV が、自由に閲覧できるとは本当に良い時代になった。そして、今だからこそ、この先進性もまた理解できるのだ。確かに彼らは 1978 年の時点では早過ぎた。それにしても、この PV での三人は、カッコ良過ぎる。


-----------------------------------------

2013 年 4月 3日 PiL JAPAN TOUR 2013 @ なんば Hatch


入場の際にボディ チェックがあったりして、1996 年のピストルズ再結成ライヴの時のことを思い出したが、ゼロ年代の今、ライヴ会場にナイフやら危険物を持ち込む様な筋金入りのバカなんていないよ ( 笑 )
セックス ピストルズのインパクトの陰になってしまい不遇を囲っていた PiL であるが、今更ながら結成当時のメンバーは、実はすごかった。ジャー・ウォブル:ベース ( 1980 年まで在籍 ) 、キース・レヴィン:ギター ( 1983年まで在籍 ) 。彼らは後に、喧嘩別れしてしまうわけだが、初期の最も PiL らしいと言えるサウンドづくりにおいてこの二人の貢献度は半端ではなく、ジョン・ライドンはむしろただのヴォーカリストでしかない と言う感じすらする。
日本でのライヴが決定した直後にキースが抜けてしまい、1983 年以降の PiL は、ジョンのソロ プロジェクトの趣きとなるわけだが、実際つまらない。いわし亭も当時の大阪厚生年金会館大ホールで行われたライヴには相当迷ったのだが、結局、行かなかった。熱心に聴いていたのは、キース・レヴィンの自主制作リリース盤 『 Commercial Zone 』 とその別ヴァージョンともいえるジョン・ライドン版メジャー作品 『 This is what you want, This is what you get 』 ( 1984 年 7 月 ) までである。

今回はライヴ参加のことがあったので、最新アルバム 『 This is PiL 』 を聴き込んではいたが、このアルバムは音そのものにスリルが感じられない。音に何物をもなぎ倒すような強靭な意思が感じられず、さらりと通り抜けて行ってしまうし、歌われている内容も今一つ、ぴん と来ないのだ。
現在の PiL は、ギター : ルー・エドモンズ ドラム : ブルース・スミス。彼らは 『 Happy? 』 ( 1987年 ) の頃、在籍していたメンバーで、元ダムドと元ポップ グループ。ベースのスコット・ファースはセッション ミュージシャンとしてスティーヴ・ウィンウッドやエリヴィス・コステロのバックを務めていた。従ってメンバー的には、かなり豪華なはずなのだが、見ている分にはいわゆるおやじバンド的な風情が濃厚に漂う。
ルー・エドモンズは、ひげとサングラスで有名な ZZ-Top みたいなルックスで、エレキ ウードとでもいうべき変な楽器やバンジョーを弓で弾く、セミアコ、ストラトキャスターと楽曲ごとにギターを変えている。スコット・ファースはジャー・ウォブルを彷彿させる地を這うようなベース。これはセッション マンだった関係で、いとも簡単にコピーしている感じ。ブルース・スミスは 2011 年のサマーソニックの時は、PiL とポップ グループとの掛け持ちだった。手首を固定して使わない奏法で、ジャストではなく微妙にスネアのタイミングがずれており、このズレが面白い効果を生んでいた。

注目のジョン・ライドンは、ピエロの衣装のような真っ白のだぶだぶの服に赤い上っ張りで体型をごまかしていたけれども、太鼓腹は一目瞭然で、まるで巨大なダルマ状態。外人はやっぱ太りやすいなぁ と感じた。ライヴ中、やたら股間に手をやるのだが、その腕が腹につかえている感じが物凄く嫌だった ( 笑 )  一曲歌い終わる度にウガイをして、傍らの容器に吐き出しては、鼻の穴を抑えて鼻水を抜いていて、その様子がいかにもパンクな英国人と言う感じで、きったなくて可笑しかった。
学生の頃、渋谷陽一がNHK-FMの 『 サウンド ストリート 』 で、“ 人類にとって、風邪をひいている状態こそが実は、普通の状態ではないのか ” と、そして “ ジョンライドンの鼻声は、もはや世界遺産的に偉大なのだ ” と話していたのを思い出した。
確かに、何を歌っているにせよ、この鼻声のアイデンティティは絶大であり、これだけで一芸になっているなぁ と感じた。奇妙な振り付けで、踊りながら唄うデブなじいさんになったジョン・ライドンでも、この声色の説得力はいまだに健在だった。初期の曲については完全コピーって感じで、バックのメンバーも黒子に徹していて良かった。
ネットに拠れば、2004 年に英国 ITV のリアリティ番組 『 I’m A Celebrity Get Me Out Of Here 』 に出演したジョン・ライドンは、ほとんどお笑い芸人と化しており、その後もアンチ ヒーロー然としたかつてのジョニー・ロットン像を破壊し続けている ( ファンの幻想を裏切りまくるというのは、ある意味、これこそパンクだ ! ) とのことで、そう考えるとこのステージングにも納得させられた。

セット リストは、一曲目が一番好きな 『 フラワーズ オブ ロマンス 』 から 「 フォー アンクローズド ウォールズ 」。二曲目が 『 メタル ボックス 』 から 「 アルバトロス 」 ということで、いきなり結構、高揚した。そこからは新譜中心だったが、終盤にはファーストから 「 パブリック イメージ 」 「 Death Disco 」 (1979年6月 2枚目のシングルとして発表された。同曲のミックス違いが 「 Swan Lake 」 というタイトルで 『 Metal Box/Second Editon 』 に収録 ) も披露される。残念だったのは、一見、バディ・ホリー編成の極く普通のバンドであり、意外に音が小さくて、音圧があまりなかったこと。空気の震えるようなベースの振動は凄かったが ( 苦笑 )。

少し物足りない感じが残ってしまったライヴではあったが、地獄の季節を生き抜いたツワモノ達の帰還は、それなりに感慨深いものであり、けっこう楽しめたな、このライヴは。
アンコール後のメンバー紹介で、ジョン・ライドンは自分自身をジョン・ヴァジャイナと紹介した。ガキか(笑)







2013年6月18日火曜日

いわし亭部長とフランシーヌ千里部員の音楽放談~キノコホテル『淫力魔女の生贄 』ツアー


第12回目 テーマ: 『淫力魔女の生贄 』ツアー~キノコホテル ライヴ レポート


フランシーヌ千里です。

行ってまいりましたよ! 神戸ライヴ!! 5月24日に神戸 “ 太陽と虎 ” で行われたキノコホテルの “ 実演会 ” ( キノコホテルのライヴを彼女たちはこう呼んでます ) に行ってまいりました。あぁ、楽しかった… そして感動。

関西での“実演会”を通して、いわし亭部長と放談しています。
 “実演会”の間、そしてあれからいろいろと考えていたことを、今回は私をメインでしゃべらせていただいています。

マリアンヌ東雲さんのエンターテイナーぶりに始まり、今回のツアー 『 淫力魔女の生贄 』 というテーマについて や、男性であるいわし亭部長と女性であるフランシーヌのステージに対する感じ方の違いなど…

今回は新たにメンバーに加わったジュリエッタ霧島さんの演奏を含めたキノコホテルのサウンドについてもいわし亭部長に分析を行ってもらいました。

ライヴハウスの写真も入っているので見て & 聴いてくださいね!






マリアンヌ東雲さんはフロアを凝視してくれるのですが、何だか私は、見つめられているような気持ちになってどきどきしてしまいました。
仕事帰りに急いで駆けつけたので、お化粧直しもままならぬままの参加だったのですが、こんなに見られるならば (!?) ちゃんとお化粧直ししておくんだったぁ と… それもあとの祭り! 

ともかくも、まさにマリアンヌ支配人と一体となれたすばらしい “ 実演会 ” でした。


キノコファンさん、よろしければコメントもいただければうれしいです。


● 5月24日の “ 実演会 ” の前にライヴハウスで流れていたドアーズの記事についてはこちら

● いわし亭の 連載 『 キノコノトリコ~キノコホテル物語 』 はこちら

● 昨年10月の “ 実演会 ” に関する放談 『 キノコホテル体験記 』 はこちら




『 マリアンヌの逆襲』  

1. エレキでスイム
 ( 作曲 : ブラボー小松 )

2. ノイジー・ベイビー
 ( 作詞 ・ 作曲 : クニ河内 )

3. 今夜はとってもいけない娘
 ( 作詞 : 山川啓介 作曲 : いずみたく )

4. かえせ! 太陽を
 ( 作詞 : 坂野義光 作曲 : 眞鍋理一郎 )

5. すべて売り物
 ( 作詞 : Phew 作曲 : aunt sally )

6. 悪魔巣取金愚
 ( 作詞 ・ 作曲 : 橋 照幸 )





実演会で、初めて 「 かえせ! 太陽を 」 を聴いたのは2011年の7月だった。
これはイギリスのカルト雑誌 『 ビザール 』 がオールタイム異常映画に選出した国際的なカルト作品 『 ゴジラ対ヘドラ 』 の劇中挿入歌である。本作では ’71年当時の風俗を反映して、主題歌を唄う麻里圭子のボディ スーツにはサイケデリックなペイントが施され、いたずらに危機感をあおる彼女のアナーキーなヴォーカルが、三回も披露される。
そして、このミニアルバムのタイトルも間違いなく、この曲の収録と同時に決まったのだろう。“ ゴジラ ” の第二作は大坂城を舞台にアンギラスとの激闘を描いた 『 ゴジラの逆襲 』 である。

歌詞の素晴らしさもさることながら、この曲をあの福島原発事故のわずか4か月後に実演会で披露したマリアンヌ支配人には、ある種の思いがあったのではないかと、容易に察せられる。
そもそも、“ ゴジラ ” 程、核の脅威をテーマにした作品はなかったのだ。


------------------------------------------------------------

JUNGLE ★ LIFE (VOL.185 2013 年 5月 1日)


―― 逆に今作で一番知られているとしたら、映画 『 ゴジラ対ヘドラ 』 の主題歌にもなった 「 かえせ! 太陽を 」 でしょうか?
マリアンヌ 私はこの映画がすごく好きで、DVDも持っていて何回も観ているんです。印象的な曲だし、いつかカバーしたいとは思っていました。でもいかんせんメッセージ性の強い曲なので、キノコホテルとしてやるのはちょっと違う。ところがとうとうああいう事故 ( 福島原発事故 ) が起きて… 今こそ、この曲の出番だと思ったわけです

―― 東日本大震災に伴う福島原発での事故が、契機になっている
マリアンヌ 一昨年の 3.11 をキッカケに、実演会で演奏するようになりました。ヘドラは公害がモチーフになっているんですけど、そもそもゴジラ自体が放射能とは切っても切れない存在ですから

―― 公開当時に観た多くの子どもが、トラウマになったということでも知られる映画なんですよね
マリアンヌ そういうところも良いと思うんですよ。昔の娯楽作品はトラウマを生むほど強烈でありながらも、どこかにユーモアがあったり、ちゃんとメッセージがあったりしたでしょう。今そういったものを作らせると、ただ単に悪趣味で不健康なだけだったり、やたら説教臭い駄作にしかならないんじゃないかしら。人から注目を集めるためだけの、グロくて病的なものが一瞬注目を浴びてすぐに忘れ去られて行く。そんな今の風潮に、私は馴染めないでいます。キノコホテルも同じで要所要所に毒がある感じが良くて、毒 100 % だとただのゲテモノですし、つまらないんです。様々なスパイスを何処にどう振りかけて行くかが面白い。料理のようなものですね。私はしないけど ( 笑 ) 

―― この曲も歌っている内容はきついはずなのに、すごくキャッチーに聞こえるのが面白かったです
マリアンヌ 「 水銀 コバルト カドミウム 鉛 硫酸 オキシダン… 」 よく考えますよね ( 笑 )  この絶妙なはまりぶり。それをわざと誇張するような歌い方にしたりとか、色々と工夫に工夫を重ねました。この曲が一番、歌入れに苦労しました。まずどういうスタンスで臨もうか、というところから出発したので

―― 原曲ともまた違った、かわいらしい歌声に聞こえました
マリアンヌ ( 原曲の ) 麻里圭子さんみたいな “ お姉さん ” っぽい感じでサラっと歌おうかとも思ったんですが。ステージでは、もはやパンクのようなアプローチで攻める事もあります。お客さんと一緒に拳を上げて思いっきり叫んだりとかね。その光景はなかなか面白いんですが、視覚のない録音物で同じことをするとシラケてしまうのね。だからそれとは路線を全然違うものにしようとした結果、大人なのか子どもなのか誰が歌っているのかもよくわからない仕上がりになりました。ボーカルのエフェクトは色々試してテープエコーを採用しています。昔のアニメの曲みたいなものをちょっと狙ってみたの


-------------------------------------------------


【第2回】 現在に至るめまぐるしいメンバー チェンジ(2013/2/1 改訂)

【第3回】 キノコ再生~最強メンバー 集結

【外伝】エマニュエル小湊 秘書~キノコホテル退職直前実演会
     2012年12月6日 サロン・ド・キノコ~四次元の美学・名古屋編 クラブクアトロ にて

【第4回】 リズムセクション 電気ベース担当:エマニュエル小湊 & ドラムス担当:ファビエンヌ猪苗代

【特報】新従業員 ジュリエッタ霧島 颯爽登場!(1)(2)(3)(4)
   2013年2月9日 サロン・ド・キノコ~河原町炎上・第一夜 京都磔磔 
   2013年2月16日 FUZZ! presents キノコホテル実演会 高松swagg
   2013年5月24日 サロン・ド・キノコ~淫力魔女の生贄・神戸編 太陽と虎
   2013年5月25日 サロン・ド・キノコ~淫力魔女の生贄・大阪梅田編 Shangri-La
   2013年8月19日 サロン・ド・キノコ  神戸 太陽と虎

【緊急レポート】その時なにが起こったの? 風雲急! マリアンヌ支配人、倒れる

【 緊急レポート 】 「 ノイジー・ベイビー 」 カヴァー騒動顛末記 ~ 歌は誰のものなのか?

【 第5回 】 電気ギター担当:イザベル=ケメ鴨川







2013年6月7日金曜日

まぼろしの世界~ドアーズのスポークスマン レイ・マンザレク氏 死去に寄せて



ドアーズのキーボード奏者 レイ・マンザレク氏死去、胆管がんで闘病
ロイター 5月21日(火) 8時25分配信


5月20日、米国の伝説的ロックバンド  “ ドアーズ ” のメンバーで、キーボード担当のレイ・マンザレク氏が、ドイツのローゼンハイムで死去した。


米国の伝説的ロックバンド  “ ドアーズ ” のメンバーで、キーボード担当のレイ・マンザレク氏が20日、ドイツのローゼンハイムで死去した。74歳だった。同バンドのマネジャーが明らかにした。[ ロサンゼルス 20日 ロイター ] 

声明によると、マンザレク氏は胆管がんを患い、闘病生活を送っていた。“ ドアーズ ” のギタリスト、ロビー・クリーガー氏も “ 友でありバンド仲間のレイ・マンザレクの訃報を聞き、深く悲しんでいる。レイは私の人生においてとても大きな一部であり、会いたくてたまらなくなるだろう ” との声明を発表した。

マンザレク氏は1939年、イリノイ州シカゴ生まれ。1965年にボーカルのジム・モリソンと “ ドアーズ ” を結成。代表作に 「 ブレイク オン スルー 」 や 「 ハートに火をつけて 」 がある。

写真はギタリストのロビー・クリーガー氏(左)とハリウッドの殿堂入りを祝うマンザレク氏。2007年2月撮影 ( 2013年 ロイター/Gus Ruelas )


2012年 Skrillex ( スクリレックス )  と ’60~ ’70年代音楽シーンの伝説 The Doors ( ドアーズ)  のメンバー ( ロビー・クリーガー、レイ・マンザレク ) がコラボした 「 Breakin‘ A Sweat 」 がリリースされ、そのドキュメンタリー映像が YouTube にアップされた。(http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=pT40_00AGQU
ギタリスト、ロビー・クリーガーはローリングストーン誌に “ これこそ21世紀のドアーズのサウンドと言いたい : I like to say this is the 1st new Doors track of the 21st century ” と語った。



レイ・マンザレク氏 死去に寄せて ~ザ ドアーズ アフター

セクシーでハンサムで、文学的な才能があり、ヴォーカリストとしてのカリズマ性が抜きんでていた人物と一緒にバンドをやるというのは、しかも彼が若死してしまい、そのイメージを守るためにスポークスマンとして、そのバンドの解散後も生涯関わって行かなければならないというのは、まさに貧乏くじを引いたようなもので、レイ・マンザレク氏の苦労は筆舌に尽くしがたいものだったと思う。

けれども、同時にそれは、得難い友人と過ごした数年間の思い出で一生を過ごせたという意味で、マンザレク氏ほど幸福な人も珍しかったのかもしれない。
今頃は天国でジム・モリソンと再会し、バンド結成の話で意気投合したヴェニス ビーチの ’66年の夏のあの瞬間を懐かしく反芻しあっているだろう。ご冥福をお祈りしたい。

ドアーズが現役だった当時の音楽誌には、ロサンゼルスのどんより曇った空に濁ったペンキをぶちまけるようなオルガン サウンドという分かったような分からない様な比喩がされていたりで、ことほど左様にドアーズというのは、つかみどころのないバンドだった。



実際、ヴォーカリストのカリズマ性が圧倒的であったがゆえに、他のメンバーはかなり損をしている。
オリジナリティにこだわり、ローリング ストーンズやビートルズと同じようなサウンドになるのを避けるため、あえてベーシストを入れず、オルガンでバンド サウンドを固めた判断は、マンザレク氏によるものだ。キーボードを擁したバンドはたくさんあるが、ベースの代わりにキーボードやギターを機能させたアイディアは秀逸であり、この判断は高く評価されていいと思う。
彼らの最大のヒット曲である 「 ハートに火をつけて 」 や  「タッチ ミー 」 はギタリスト ロビー・クリーガーの作品で、ジムが存命中のドアーズが発表した13枚のシングルのA面のうち、実に7曲の作詞・作曲を手掛けている。リーダー格のマンザレク氏とジムの作品は曲調が暗く、反社会的なものも多かったため、「 ハートに火をつけて 」 でドアーズを知ったファンが、デビューアルバムを手にした際の違和感は、現在の我々の比ではなかったろう。
フラメンコギターからそのキャリアをスタートさせたロビーは、5本の指全てを使うフラメンコスタイルのフィンガー ピッキングを得意 ( 例えば 3rdアルバム 『 太陽を待ちながら 』( ’68) 収録の 「 スパニッシュ キャラバン 」 など ) としたが、ベーシストのいないドアーズでは、このフィンガー ピッキングがことのほか有効に機能した。
ジョン・デンスモアのジャズのメソッドを駆使したドラムも、いわゆるハードロックのバンドにしては異色だったが、ジム・モリソンの気まぐれなステージングを支えるためには、そのインプロヴィーゼーション スキルはなくてはならないものだった。

ジムを失ってからも、残された三人はドアーズを続けたが、やはり商業的な成功には恵まれず、 『 アザー ヴォイセズ 』 ( ’71 ) 『 フル サークル 』 ( ’72 ) の2枚のアルバムを制作して解散する。

その後、ロビー・クリーガーとジョン・デンスモアは The Butts Band を結成。ジムの呪縛から解放された彼らは、自分たちの気質にあわせた音楽性を楽しむ方向で活動を続けた。英国ロック界屈指のいぶし銀の喉を誇るジェス・ローデンがヴォーカルで参加した ’74 年のデビューアルバムは、ドアーズの作品を手がけたブルース・ボトニックをプロデューサーに迎え、ロンドンとジャマイカで録音された。ジェスのブリティッシュ スワンプと元ドアーズの L.A. サウンドのミクスチャーは、グルーヴィなリズム&ブルーズに結実し、地味ではあるが玄人好みの渋い名盤に仕上がっている。

一方のマンザレク氏は、ジムの生まれ変わりを執拗に探し、ドアーズの再生を画策し続けた。ファントムと名付けた不思議なヴォーカリストを自らのバンドでデビューさせたり、L.A. パンクバンド X のデビューアルバム 『 Los Angeles 』 ( ’80 ) をプロデュースした。本作ではドアーズの 「 ソウル キッチン 」 ( 4th アルバム 『 ソフトパレード 』 ( ’69 年) 収録 ) がカヴァーされている。
しかし、この頃、ジム・モリソンそのもののイメージを醸していたのは他ならぬイギー・ポップであったと言われている。イギーは自らジムのファンを公言しており、実際、ジムの後任としてドアーズに参加するのではないか とさえ言われていたのだ。

アメリカンパンクを象徴したテレヴィジョンのトム・ヴァーラインは “ ドアーズのいたエレクトラレコードと契約する ” ( ’77年 ) と公言し、パティ・スミスはフランスのペールラシェーズのジムの墓前にたたずむ写真を撮影した。
フランシス・コッポラの20世紀最大の問題作とさえ言われた 『 地獄の黙示録 』 ( ’79年 ) の冒頭とエンドタイトルで、この作品のテーマを象徴するように流れたのは、ドアーズの 「 ジ エンド 」 であった。
エコー&ザ バニーメンはデビュー当初から、イアン・マッカロクのヴォーカル スタイルがジムと酷似しているとの指摘が多かったが、映画 『 ロスト ボーイズ 』 ( ’ 87年 ) のサウンドトラックで満を持して、マンザレク氏のプロデュースのもと 「 まぼろしの世界 」 ( 2nd アルバム 『 ストレンジ デイズ 』 ( ’67年 ) 収録)をカヴァーする。
’72 年の解散後もドアーズをめぐる動きは途切れることなく続いたのである。

RO69ニューズ : 
ドアーズのロビー・クリーガーとジョン・デンスモアによるレイ・マンザレク追悼ライヴが実現に

オリバー・ストーン監督の
『ドアーズ』(’91)の原作本

2002年、マンザレク氏とロビーは、カルトのイアン・アストベリー、元ポリスのスチュワート・コープランドらと 21世紀のドアーズ the doors OF THE 21ST CENTURY を結成する。
エキスポ70 大阪万国博覧会の開催に合わせて来日の計画があったドアーズは、2003年、21世紀のドアーズとしてサマーソニックのステージを踏むため、実に 30 年以上の時を経て、ついに来日した。ジムの存命中でさえ実現しなかったドアーズの日本公演ではあったが、ジョン・デンスモアは耳の病気を患って、演奏ができなかったとされ、オリジナルメンバーはマンザレク氏とロビーだけであった。しかし、カルトのイアン・アストベリーはジムを思わせる長髪とスリムな風貌で、なかなかの雰囲気を醸し出し、サマーソニックに参加した多くのミュージシャンたちは、これを敬意をもって迎えた。


------------------------------------------
セカンドアルバムのジャケットを彷彿するイメージ写真

以下は当時、この 21世紀のドアーズを聴くために老体にムチ打って参加した 『 サマーソニック 2003 』 の覚書である。

2003年8月2日 ABC/creativeman/vodafone SUMMER SONIC ’03 OSAKA
真夏の世の夢 ~ “ サマー ソニック ’03 ” に立ち上ったまぼろしの世界


オールスタンディングの真夏の野外ライヴに行くなんてバカなことをやる気になったのは、全部 ドアーズのせい! まずは何をおいても、レポートはここから始めないとね

資料によれば ’70 年の万博の時に可能性があったらしいが、おそらく件のマイアミ事件のせいで中止となりその後、ジムが急逝したため結局、実現しなかった来日が、実に33 年を経て正に紆余曲折の果て、実現した。
本年の “ サマーソニック 03 ” は、レディオヘッドのエントリーが決まった時点で成功はほぼ間違いなく、野外コンサートでありながらなんとチケットがソールド アウトという異例の事態を招いた。あらゆるロック ファンにとって必然とさえ言われた、レディオヘッドのライヴ体験とほぼ同じ時間に、解散して 30 年以上にもなるバンドのライヴがひっそりとしかし、一握りの熱いファンの前で披露されたのだ。これもまたもう一つの歴史的必然と言うべきか…

長い間のファンとしては、あのライヴ アルバムの冒頭の紹介アナウンス、“ フロム ロスアンジェルス カリフォルニア ザ ドォァーズ!! ” という叫びから、「 ロードハウス ブルーズ 」 の耳慣れたリフがシャッフルのリズムに乗って、レコードと寸分違わぬ音色で鳴り出した瞬間に、全身の毛穴が一気に開いたという感じだった。ぞわぁわぁ~ と

ロビーとレイの紡ぎ出すサウンドは、実にレコードのあの古臭い音色を見事に再現しており、音響技術の長足の進歩にまず感じ入った。技術的には違和感なく、きちんとした演奏がされ、むしろ若さに任せた力技一辺倒だった当時よりも、むしろ上手に肩の力の抜けた今の方が良いのかもしれない。彼らも恐らくは還暦を迎えるおじいさんロッカーなのだから…

元カルトのヴォーカリストであったイアン・アストベリーは、前半ずっとサングラスであったがそれをとった後半のステージでも長くウェーヴした髪型もあいまってジムの雰囲気が良く出ていた。しかし、稀代のカリズマ ジム・モリソンを演じるのは彼にとっては実にストレスなのではないだろうか? どこまで完璧に演じても死者のイメージには勝てないのだから気の毒な話である。
ジムはライヴでは即興の詩を突然に口ずさみ、狂ったようなパフォーマンスを繰り広げたということだが、それを彼に期待するのは酷な要求である。ザ フーのロジャー・ダルトリーばりにブン ブン振り回す関係で、コードのついた旧態然としたマイクを使っていたが、そのせいで「ワイルド チャイルド」のようなくるくる回りながら歌うところ等では、上手い具合にマイクを左右に持ち替えていた。そうしたしぐさも含めて、よく研究しているなと思わせた。

ラストは “ さぁ~ 大阪の夜を燃やし尽くしてやるかナァ… ” とレイのコメントが入ってあの何百回と聞いたオルガンの印象的なフレーズから 「 ライト マイ ファイアー 」 がスタート。ロング ヴァージョンとは言えめちゃくちゃに長い演奏になり、途中からは元に戻れなくなって、レイが演奏を止めて、ギターとドラムスと観客を交互に指刺して演奏を促すパフォーマンスで、なんとか持ちこたえた。これはまずまずご愛嬌ではあるが、ある意味、こうした下手さも含めてドアーズなんだなぁ と ( 苦笑 ) 
アンコールでは、なんと 「 L.A. ウーマン 」 。曲の後半では、イアンがまるでジムがやったように客席になだれ込み、聴衆の頭上をあお向けに運ばれながらも歌い続けるという、往年のジムのパフォーマンスを披露。さすがのレイもロビーも、当時を思い出したのか苦笑いをしていた。その笑顔は、地獄の季節を生き抜いた ’60 年代の強者たちの安息の表情でもあった。

ジムのいないドアーズをドアーズと呼んで良いのか? という今更ながらの疑問は実は大きなお世話であって、ジムが急逝した当時も、ドアーズは 3人でアルバムをさらに2枚発表しているのだ。例えば、ロバート・フリップが仕切っていても、現在のキングクリムゾンは我々の期待しているキングクリムゾンとは似ても似つかぬもので、むしろ、我々の幻想は 21st センチュリー スキゾイド バンドの方にある。ロビー・ロバートスンがいなくてもレヴォン・ヘルムが歌った時点でザ バンドはザ バンドだった。


ないものねだりをしてもしょうがない。この絶望的に濁ったオルガン サウンドと恐ろしく骨太なギター サウンドのコラボレーションが日本で再現されたというだけでも特筆すべきことなのだと思う。

単独での来日公演をぜひ、期待したい。


8/2 インドア ステージ インクテック大阪 4号館 
19:18~20:48
<セット リスト>~うろ覚えです(苦笑)
ロードハウス ブルーズ
ブレイク オン スルー#2
音楽が終ったら
ラヴ ミー トゥー タイムズ
ムーンライト ドライヴ
ワイルド チャイルド
ロビー・クリーガーによるフラメンコ ソロ
~ スパニッシュ キャラヴァン
ファイヴ トゥ ワン
アラバマソング
ハートに灯をつけて
(アンコール)
L.A. ウーマン



1. ブレーク オン スルー
2. ハートに火をつけて
3. ラヴ ミー トゥー タイムズ
4. ハロー アイ ラヴ ユー
5. まぼろしの世界
6. ストレンジ デイズ
7. ライダーズ オン ザ ストーム
8. L.A.ウーマン
9. タッチ ミー
10. ロードハウス ブルース
11. ピース フロッグ
12. ラヴ ストリート
13. 水晶の船
14. ソウル キッチン
15. ラヴ ハー マッドリー
16. バック ドア マン
17. アラバマ ソング
18. 月光のドライヴ
19. 名もなき兵士
20. ジ エンド


「 ハートに火をつけて 」 の全米No.1 から 40年を迎え、デビュー 40周年を記念して制作されたリミックス & デジタル リマスター ベスト アルバムである。聴きどころは、以下、レイ・マンザレク氏のコメントで確認してほしい。

---------------------------
今回のベスト盤では最新のスタジオ技術を駆使して、実際に当時レコーディングした時の音そのものを表現したんだ。ジム・モリソンのバック コーラス、ロビー・クリーガーのギター ソロ、そして僕のピアノの音など、実際に演奏したにもかかわらず、ミックスダウンで消されてしまった音を始めて聴くことができる。伝説のレコーディング セッションのオリジナル音源を堪能してもらいたい。